#短編小説「生きづらさの旅の中でー出逢いの風景ー」

　ぼくは、恋をしたんだ。
　
　その夏、ぼくは、ヒッチハイクで北海道を旅していた。原生林の静寂さと、ひたすら、真っ直ぐな道の彼方から吹き寄せる風は爽快であったが、ぼくは、陰うつとしていた。理由は判らない。ただ憂うつから、居ても立ってもおれず、旅に出るのだ。けれど、いくら旅を続けても、憂うつは募るばかりで、この旅をしていること自体に意味があるのか、と自問してしまう。

　ただ、旅をしていて、１つ云える事があるとすれば、ぼくは恋をしたのだと。
　
　その日も、ぼくは憂悶を抱えながらヒッチハイクをしていた。不意に一台の車が止まってくれ、すかさず、車へと乗り込むと、行き先を聞かれたが端と困ってしまった。ぼくには、目的地がないんだ。だから、女性の行き先を聞き、自分も、そこまで行きたいのだと訴えた。
　
　彼女の名は奈未といった。奈未の肌は、純白の絹のように繊細で、運転中遠く先を見やる視線は何か、とらえ所のない壮麗な芳香がした。けれど外見とは違い、奈未はとても闊達に話し、車中、ぼくは奈未からの質問ぜめに戸惑いながらも、その出逢いに運命的なものを感じざるを得なかった。
　
　今は、夏休みで神奈川からヒッチハイクでやって来て、北海道を旅している事を告げると、奈未は感嘆し、手を叩いて喚声を上げた。ぼくは、苦笑しながら手放しとなったハンドルを気にしていた。奈未は、静内への帰路とのこと、

　「牧場しかない小さな町だけど、お馬さんが沢山いるのよ」と、無邪気な微笑を浮かべた。

　静内に到着すると、ぼくがどんなに断り続けても、奈未は彼女が暮らすアパートに、ぼくを連れて行こうとした。ただただ純真に何の警戒心もなく、

　「8月の北海道はもう秋よ。野宿するなんて風邪をひくわよ」と、ぼくを解放しようとしない。その晩、ぼくは生まれて初めてジンギスカンを食い、初対面の女性の家に泊まった。
　
　あくる日、ぼくは丁寧に礼を告げて別れた。奈未は、やはり無邪気に微笑していた。旅の目的がないのだから、出発したのはいいけれど、困惑してしまう。ただ、静内から真っ直ぐ進めば、襟裳岬があるので無理やり、そこに向かうことをモチベーションとした。

　数台、ヒッチハイクして、車中、ぼくは、ずっと奈未のことを考えていた。そして何もない襟裳岬は、孤独なぼくを、一層、孤独にさせた。ぼくは、奈未にもう一度逢いたいとの趣旨のメールを送った。
　
　それから数日間、釧路、網走、知床、旭川、富良野を旅して静内へと舞い戻ってきた。充実した旅とは、どんな旅のことを云うのだろうか。ぼくの旅には、常に陰鬱とした何かが憑きまとっていた。これまで、どこを旅しても同じだった。それを拭い去るために先へ進む。それでも、憂うつは執拗に襲ってくる。それがぼくの旅だった。
　
　静内で奈未は、ぼくを待っていてくれた。それを彼女の口から聞いて、ぼんやりとした温もりを感じた。その夏、初めて喜びらしいものを感じていた。その年の春から、ぼくは薬なくしては眠れなくなっていたし、日常生活も、ままならなくなっていた。
　
　彼女との再会に際して、ぼくは、幽かな悪意のこもった嘘をついた。ワインを抱えて彼女のアパートを訪れ、旅で出会った方にもらったのだと、嘘をついた。彼女と酒を呑むために、二晩考えた末のアイデアだった。
　
　酒を呑むと、ぼくは往々にして哀しくなってくる。いつも抱えている懊悩が表へと現れ、口数がどんどん少なくなっていく。苦しい想いが頂点に達して、ついに彼女に病気のことを打ち明けた。我慢がどうしてもできなかった。泣きべそ顔である。
　
　その晩、ぼくは奈未の胸で、身体が溶けるような眠りを経験した。それは深い深い海の底で、ゆっくりと海流に身を任せ、温かなものを感じながら・・それは、奈未の体温。
　
　翌日から、ぼくは奈未をアパートから仕事へと見送る身分となった。見送ると、何もすることがなく、時間が過ぎるのを待つ。ただ、奈未の帰宅を待ち、そして、今日も奈未の胸に抱かれて眠る。唯一、それだけが、ぼくの救いであった。死にたいほどの憂悶を抱える中での灯火であった。

　ぼくは、恋をしたのである。
　
　その年の夏は、ずっと、奈未の胸に包まれて夜を過ごした。今、毎晩、女性の胸で甘えて眠る自分を想像すると、気味の悪さと、自己嫌悪から死にたくなってくる。

　あの夏のぼくは、赤子であった。何もしていないのである。奈未が、仕事から帰ってくると飯を作ってもらい、でかい顔をしてそれを喰う。風呂を入れてもらい、体まで洗ってもらう。そうすると、ぼくは今日一日、自分が何もしていないことに気がつき、その戦慄に恐い、恐いと呟いては、奈未の乳房に顔を埋めて眠った。
　
　日に日に、自分が情けなくなってくる。あの夏ほど、だめな自分で幸せだったことはない。
　
　

　奈未は現在、函館の方で結婚生活を送っているそうである。そう云えば、あの夏、彼氏からよく電話が掛かってきていた。留守電に入る柔和な彼の声は、ぼくに、子供がする悪戯の快楽のような感覚を覚えさせた。
　
　一期一会。ぼくは、出逢いが織り成す、愉快な風景を見て取る。彼女は新しい生活を始め、幸せでいるようであるが、ぼくは、相も変わらず憂悶に襲われ、現在は脳病院で療養中である。