【エッセイ】麦わら帽子の放つ詩情
麦わら帽子といって連想するのは、あいみょんの「マリーゴールド」ではなく、「へこみ」なのである。
現代歌人で最も有名な人かもしれない。俵万智さんの「サラダ記念日」のうちの一首である。私みたいなのが今更何を言えるわけでもないのだが、なんとなくその気になったので、今日はちょっと、この歌の素晴らしさを書き綴ってみたい。
この麦わら帽子を被って過ごした一日が、作者にとっては、たまらなく愛おしいものだったのだろう。それは、子どもとの思い出か、恋人か、夫か、友達か、わからない。ただ、ひたすらに素敵な思い出なのである。ちょっとやそっとのことではないその感動をどうやって表現するか。「素敵」とか、「最高」とか、「忘れられない」とか、そんな直接的な言葉は詩情も風情もなく使えない。あまり遠回しな表現にしても、コテコテに凝ったレトリックをかましても夏のカラッとした爽快さ、青々しさから離れて雰囲気が壊れる。そこで、飛び出したのが「そのままにしておくへこみ」である。天才の所業である。これほどピッタリした表現はない、絶対にない。
まず、「麦わら帽子」という、これしかない!と思わされる抜群のチョイスセンス。次に、へこみをそのままにしておきたい、という愛らしさ、かわいらしさ。さらには、夏の終わりとともに帽子はその形状を回復させるだろうという儚い想像の喚起。しかしまた最後には、その儚さとは対照的に、思い出を決して忘れないよ、という作者の静かな決意が余韻に残る。完璧なのである。
探してみると、これに近しい表現もあるにはある。「もう手を洗いません」というのがそれだ。”推し”など憧れの人と握手をした手を洗わないと言い張ることで、その好意や感動を表現しようとする。終わりを引きのばしたい程の感動、情熱、思い入れ。それは共通している。が、残念ながら詩情には乏しい。「今後手を洗わない」という表明には、どうしても虚偽と不潔の存在がつきまとう。その点、麦わら帽子のへこみには、きっとこの作者は、どうしても無理な場合がくるまでほんとうにそのへこみをそのままにしておくんだろうな、という真実味がある。もちろん、どんな不潔感も感じることはできない。うむ、やはりスキがないのだ。
次は、ちょっと観点を変えて、そのリズムを感じてみる。パッと見、この文を短歌と捉えることは難しい。これ、短歌だよ、と言わない限り、初見で5/7/5/7/7に切ることができるのは、かなり少数派と思う。それもそのはず、この歌、長い長い単語なのである。「へこみ」を修飾しまくって、一つの作品となっている。さらな、「麦わら帽子」という単語の最中で切れていることもあって、そりゃ初見じゃ短歌と思わない。
この短歌と初めて出会った人間は、概ね以下の反応を示す。
まず、この文を見て、表現のセンスに酔いしれる。「麦わら帽子のへこみをそのままにしておく」だって!詩情ありすぎ!センスありすぎ!(俵万智にこんな上からモノを言っていいわけないのである)とまず興奮する。そこへもって、え!?これもしかして短歌なの!?という驚き。思わず音読してみる。「思い出の/一つのようで/そのままに/しておく麦わら/帽子のへこみ」マジじゃん!?天才か?(天才なんだよ)
こんな感じ。
実は私、数年前まで国語の教員をしていたのだが、この短歌、中学二年生の国語の教科書(光村図書)に載っているのである。上記は、とある本好きな中学生の反応実例だ。毎年、授業するたびに、一人でも多くの生徒にこの短歌の素晴らしさよ、伝われ!と願っていたものである。(いや、それはお前の仕事なんじゃないか、と言う話はさておき…)
ほかにも紹介したい教科書作品シリーズはたくさんある。また機会があったら書いてみたい。
以上おわり。