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【書評】平山優「武田氏滅亡」(角川選書)
武田信玄(晴信)といえば、最も人気の高い戦国大名の一人です。「最強の戦国武将」系のアンケートでは必ず上位に来るといってもいいでしょう。
しかし、信玄の死(1573年)からわずか10年足らずで、後継者の武田勝頼は織田信長によって滅ぼされます。
「最強」だったはずの武田氏は、なぜあっけなく滅亡したのか。本書は、勝頼の家督継承から滅亡までを丹念に描いた700ページ超の労作です。
父・信玄の築いた領国を維持できなかったことから、勝頼には「暗愚」「無能」のレッテルを貼られてきました。しかし、勝頼は決して無能なのではなく、与えられた条件があまりに悪かったのだ、という見方も浸透してきています。
名前でわかる? 勝頼の苦悩
勝頼が家督を継承した際、彼にはあるハンデがありました。代々の武田家当主の名前(諱)には、そのヒントが隠れています。
信虎→晴信(信玄)→勝頼→信勝(勝頼嫡男。天目山で戦死)
勝頼だけ、武田家の通字である「信」の字が入っていません。勝頼は信玄の四男で、家督は長男の義信が継ぐはずでした。勝頼は諏訪家の家督を継承するのが既定路線で、諏訪家の通字「頼」を含む「勝頼」を名乗りました。
しかし、義信は謀反の疑いで廃嫡されます。急遽後継者となった勝頼は、「諏訪家の人間(武田家にとって余所者)」ということになり、家中の権力基盤が弱かったのです。
長篠合戦の敗因
1575年の長篠合戦で、武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗します。敗因は、武田軍が数で勝る敵に対し、無謀な突撃を敢行したことにあります。
その背景には、前述した勝頼の権力基盤の弱さがあると指摘されています。勝頼は家中での権威を高めるため、戦果を焦ってしまったのかもしれません。
長篠合戦で打撃を受けた後も、勝頼の努力によって武田家は力を回復しました。しかし、上杉・北条・佐竹などが割拠する複雑な東国の情勢は、次第に勝頼の不利に動いていきます。
本書からうかがえる武田勝頼像は、領国の維持に力を尽くしながらも時流が味方しなかった悲劇の武将といったところでしょうか。
「心頭滅却すれば…」
武田氏滅亡に際し、その菩提寺である恵林寺は織田軍に焼き討ちされました。高僧の快川紹喜は、燃え盛る炎の中で「心頭滅却すれば火もまた涼し」と述べ、泰然と死んでいったと伝えられます。
この有名な逸話についても検証されています。実は、同時代の史料には、快川紹喜がそう言ったという記述はありません。後世の史料でも、初出時は「快川と弟子が最後の問答をした中で、弟子が言った」ことにされています。
実際はなかった逸話が、どのようにしてあったかのように伝わっていくのか。個人的に興味深いくだりでした。