それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。
鷗外は逍遥に対して三重の誤解をしていると、逍遥は指摘します。それは逍遥の資格を分けることなく論じているというもので、ひとつが、雑誌記者としての逍遥と、当世に対する逍遥の混同、ふたつめが、無限の欲を持って絶対に心を寄せる逍遥と、有限の欲を持って当世に処せんとする逍遥の混同、みっつめが、絶対に対する逍遥と、吾人と名乗る逍遥の混同である、と。(#931参照)
これに対して鷗外は、逍遥の「個人」をみっつに分類します。絶対に対する没理想を奉ずる逍遥、シェークスピアの戯曲に対する没理想を奉ずる逍遥、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、です。で、このみっつの「個人」を、みっつの「誤解」と絡めて、みっつの「資格」として組み立て直します。それが、ひとつめが、絶対とシェークスピアの両種の没理想を奉ずる個人逍遙、ふたつめが、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、みっつめが、腹稿主義を奉ずる早稲田文学記者たる逍遙、です(#976参照)。
ということで、この続きは……
また明日、近代でお会いしましょう!