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#994 逍遙には逍遙の方便あり、我には我が方便あり

それでは今日から改めて森鷗外の「早稲田文学の後没理想」のつづきを読んでいきたいと思います。

逍遙子はまた折衷之助をして宣[ノ]らすらく。儒家の仁、浮屠氏の涅槃、老、莊、カントが道も逍遙子が沒理想とおなじやうに世にあらはれたるを、鴎外が見たらましかば、その反難に逢ふことは沒理想におなじかるべし。殊にはカアライル、エマルソンが如く文章險怪なるものは所詮鴎外の假借せざるところとなりしならむといふ。

これに関する鷗外の意見はこうです。

わが見るところを以てすれば、逍遙子が地位は決して我におなじからず。逍遙子は聖教量には居らずといふといへども、かれは比量を嫌ひて、既にその心を「タブラ、ラザ」となし、機を見て無二の眞理を一掴みにせむと控へたり。我心は逍遙子が如く「タブラ、ラザ」とはなすべからざる心なり、われは我比量界にありて、歩々學にこゝろざし、念々道を求めたり。さてわが今の立脚點はしば/\言ひしが如く文學美術の批評に從事するがための立脚點にして、この立脚點はハルトマンが審美學なれど、われは必ずしもハルトマンが全系を確信せずして、これより後も人智の開けゆくに從ひて、たとひいかなる唯物論ありて、ひと時は榮ゆといへども、ハルトマンが無意識哲學よりも完全なる、ハルトマンが哲學よりも眞理に近き一大極致の生ずべきをおもへり。われはレツシングと共にわが比量界にありて、無二の眞理を掴まむとする願を立てずして、無二の眞理に向ふ道を離れじの願を立つるものなり。されば逍遙子には逍遙子の方便あり。我にはわが方便あり。兩個の地位は決してひとしなみに見らるべきものにあらずかし。

で、鷗外が次に取り上げるのは、こんな箇所です。

折衷之助は次に傳ふるやう。鴎外若し逍遙の所謂理想(作者の哲學上所見)をシエクスピイヤが作中にて見得たりとなさば、かれ宜くこれを解釋すべし。若し又逍遙の所謂理想ならぬ理想を鴎外理想としたらましかば、そは彼が誤解のみ。若し又古の諸家がシエクスピイヤの着想の根據なりといへるが如きものを、鴎外見出だして我黨に告げむか。我黨は廼[スナワ]ち五大洲を睥睨[ヘイゲイ]して彼の千魂萬魂といはれたりし怪物、わが日の本の鴎外將軍が審美の利劍に劈[ツンザ]かれて、つひにこそそが正體をあらはしつれと、洽[アマネ]くとつ國びとにのらまくす。若し又鴎外おのが理想を言ひがたき理想なりといはむか。吾黨望を失はむといふ。

ここは、逍遥の「雅俗折衷之助が軍配」の下の箇所を受けてのものです。

若し将軍の解釋が、能くかれら幾百家の解釋に立ち優りて、善盡くし、美盡くし、眞に大詩人が性情と理想とを、看破發揮し得て、餘蘊なかるべく見られんか、吾黨は急ぎシェークスピアに対する、没理想の破幟[ヤレバタ]を立地[タチドコロ]に引きおろし、先づ将軍が轅門[エンモン]に面縛[メンバク]して罪を謝し、やがて幸にして赦されんには、一統もろごゑに勝鬨を作りて、五大洲[ゴダイシュウ]を睥睨し、遠からんは目にも見よ、近からんは音にもきけかし、彼の千魂万魄といはれたりし怪物、わが日の本の鷗外将軍が審美の利剣に劈[ツンザ]かれて、竟にこそそが正體をあらはしつれ。(#942参照)

これに関する鷗外の答えは……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!


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