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#976 一家の主人も、人民も、教師も個人なるべし

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

逍遙子は沒理想の由來を説き畢りて、虚設の人物公平入道常見といふものをして

陣頭に馬を立てゝわれに宣[ノ]らせて

いはく。逍遙が談理を後にするは、汝が記實を後にすると、其本意において相異なるところなし。逍遙は特に時文評論に對してしかいへるなり。逍遙が世間に向ひての願は記實と談理との前後なく並び行はれむことなり。逍遙は汎[アマネ]く世間に向ひて談理を後にせしめむとせしにあらずといふ。こは談理を後にし、記實を先にすといふ自説を自比量なりとするなり。
わが見るところを以てすれば、逍遙子が沒却理想期の説に、談理は今の世に益少ければ後にすべし、記實は今の世に益多ければ先にすべしとやうにいへるは、特に時文評論に對しての自比量にあらずして、汎く世間に對しての共比量なりしことは、逍遙子と烏有先生とと題したる我評に詳なり。今逍遙子の後沒理想論は談理を後にすべく、記實を先にすべきものゝ時文評論に限れることを明にしたり。その共比量にあらずして、自比量なることを明にしたり。こはまことに然もあるべきことなり。
逍遙子は又常見にいはするやう。沒理想は個人たる逍遙が方便なり。逍遙はこれを以て無限に對し、またこれによりて「ドラマ」を修む。時文評論記者たる逍遙には、別に有限に對する主義の沒理想に非ざるあり。この辨を補説したる假造の人物雅俗折衷之助といふものゝ言にいはく。鴎外は個人たる逍遙と時文評論記者とを混ぜり。これを第一誤解とす。鴎外は絶對に對する逍遙と一種の對相對主義を奉ずる逍遙とを混ぜり。これを第二誤解とす。鴎外は吾人と名乘り出でたる時文評論記者と絶對に對する逍遙とを混ぜり。これを第三の誤解とす。さて有限に對する別の主義のいかなるものなるかは他日沒理想と題したる書一卷をあらはして、逍遙子みづから説くべしとなり。蓋し逍遙子はこゝにて常見和尚と折衷之助とにおのが對絶對及對相對の兩生涯を告げさせしなり。
われは先づ逍遙子の具足したるくさ/″\の資格を審査せむ。逍遙子の個人たるや、その肚裏に絶對に對する沒理想(實は哲學上若くは形而上論上無所見)とシエクスピイヤが戲曲に對する沒理想(實は作者の哲學上所見の沒却)とを蓄へたり。逍遙子の時文評論記者たるや、現世の相對に對する腹稿の主義を蓄へたり。この區別をば早稻田文學にて、常見和尚と雅俗折衷之助との二人かはる/″\陳じたり。さるにおなじ早稻田文學の別處にてあやしきことこそ出來したれ。そを何ぞといふに、かの相對に對する腹稿の主義を懐きて、現在の小宇宙に對する處分をなすといふ資格の逍遙子は忽ち主人となりて一家を治むるものとなり、人民となりて國に對するものとなり、教師として学校に勤むるものとなりぬることこれなり。われおもふに一家を治むる主人は個人なるべし、國に對する一個の人民も個人なるべし、学校に對する一個の教師も個人なるべし。時文評論記者にあらざるべし。されば雅俗折衷之助はこゝに至りて、個人たる逍遙にも、絶對に對する沒理想(形而上論上無所見)とシエクスピイヤが戲曲に對する沒理想(作者の哲學上所見の沒却)とを奉ずる個人逍遙の外に、腹稿主義を奉ずる個人逍遙あることを示したるなり。こゝに逍遙子の諸資格を總括するときは。第一、兩種の沒理想を奉ずる個人逍遙。第二、腹稿主義を奉ずる個人逍遙、第三、腹稿主義を奉ずる早稻田文學記者たる逍遙。以上おほよそ三種とす。いでや、これより上に列擧せられたる三種の誤解といふものを辨じ試みむ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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