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#974 沒却哲理は詩のすべからく備ふべき性なり

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を読んでいきたいと思います。

わが見るところを以てすれば、逍遙子はシエクスピイヤが詩の全局面に客觀といふ名を附けたる後、更に墻[カキ]の外なる別天地あるやうにおもひてこれに主觀といふ名を負はせたるなり。逍遙子が所謂シエクスピイヤの主觀はシエクスピイヤといふ個人の哲學上所見なり。シエクスピイヤといふ個人の其詩中にあらはさゞりける實感なり。
おほよそ一詩人の哲學上所見は、その詩卷中にて求めがたきものにて、その困難は詩の巧なるに從ひて増さり、又詩の叙情體を離るゝと共に加はるものなり。さればシエクスピイヤの哲學上所見とその實感とを知らむと欲して、猶その戲曲をあさらむは、氷を鑽[キ]りて火を覓[モト]め、沙[スナ]を壓して油を出さむとするにや似たらむ。

「氷を鑽りて火を求め、砂を圧して油を求む」は、できるはずのないことを望むことのたとえです。

かゝる願あるものは速にシエクスピイヤが戲曲の集を抛[ナゲウ]ちて專らその傳記を搜[サグ]るべし。想ふに、この般の探究は審美學者若くは戲曲を評するものゝなすべきところとせむよりは、歴史家若くは傳記を作るに意あるものゝなすべきところとすべきならむ。さればわれは逍遙子が十餘年を期したる探究をも、審美上若くは詩を評する上よりは、あまりありがたしとも思はず。
次に逍遙子は千八百八十四年に無名氏が作りしシエクスピイヤ論に見えたるプラトオが理想を擧げて、この希臘[ギリシア]古儒の理想を逍遙子自家の所謂理想と山房論文の理想とに比べたり。
逍遙子のいはく。プラトオの理想は鴎外の理想にはあらざるかといへり。われ答へて云く。あらず。天地の間には常住するものあり、生滅するものあり。この常住のもの、時間の覊絆[キハン]を離れたるものならでは、古今の哲學者は敢て理想と名づけざりき。プラトオとハルトマンとは理想を以て時間を離れたる、意識なき思想なりとす。されどプラトオは其理想を體として現世を象とし、彼を實在として此を幻影とせしに、ハルトマンは其理想を非實在として現世に體象あらしむ。われは現世の象後には體ありて實在すとおもふがゆゑに、わが理想はプラトオが理想に殊なり。逍遙子のいはく。わが所謂理想もプラトオが理想の意にて差支なしといへり。われ窃[ヒソカ]におもへらく。逍遙子がシエクスピイヤを評するときに用ゐし理想といふ語はシエクスピイヤが哲學上の所見なり。その當代の理想(實は哲學風潮なるべし)とすら解すべからざることをば、逍遙子みづからことわりたるに、これをプラトオが哲學統なる世界の實在常住の本體たる思想即ちプラトオが理想に取られても差支なしとは何事ぞ。逍遙子のいはく。わが所謂理想をプラトオが理想に取られても差支なけれど、シエクスピイヤの理想(哲學上所見)が拔くべからざる説によりて明證せられざる間は、沒理想(實は沒却哲理)の名目を取除くべき由縁を知らずといへり、われ又窃におもへらく。沒却哲理は詩の須[スベカラ]く備ふべき性なり。シエクスピイヤの戲曲いかでか沒却哲理ならざらむ。逍遙子理想といふ語を哲學上所見の義に用ゐむ限は、沒理想の名目、取除けずと雖[イエドモ]可なり。唯逍遙子はその所謂理想の一家の命名にして、古今の哲學者、審美家の用語例に違へるを忘れざらむことを要するのみ。

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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