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#988 逍遥の絶対生涯と相対生涯

それでは今日も、鷗外の「早稲田文学の後没理想」を、途中ですが振り返っていきたいと思います。

鷗外は、逍遥のことを三重で誤解している、と逍遥は言います。

1.雑誌記者・逍遥と、当世に対する逍遥の混同
2.無限の欲を持して絶対の研究に心を寄せる逍遥と、有限の欲を持して当世に処せんとする逍遥の混同
3.絶対に対する逍遥と、吾人と名乗れる逍遥の混同

これに対して鷗外は、逍遥の「個人」を三つに分類します。

1.絶対に対する没理想を奉ずる逍遥
2.シェークスピアの戯曲に対する没理想を奉ずる逍遥
3.腹稿主義を奉ずる個人逍遙

そして鷗外は、三つの「資格」として組み立て直します。
1.絶対とシェークスピアの両種の没理想を奉ずる個人逍遙
2.腹稿主義を奉ずる個人逍遙
3.腹稿主義を奉ずる早稲田文学記者たる逍遙

で、改めて、最初の三重の誤解に言及します。

所謂第一誤解の條に見えたる區別はいと覺束なきものなるべし。故いかにといふに個人たる逍遙も時文評論記者もその腹稿主義を奉ずるところ相同じければなり。次に第二誤解の條に見えたる區別もまたいと覺束なきものなるべし。故いかにといふに絶對に對する逍遙こそ記者をばなさずといへ、對相對逍遙は記者をもなし、個人をもなせば、對絶對個人と對相對個人とは、その並に個人なるところ相同じければなり。さて第三誤解の條に見えたる區別も亦いと覺束なきものなるべし。故いかにといふに對絶對逍遙は記者をなさずといふといへども、個人逍遙は對相對なること記者におなじき時あればなり。(#977参照)

こうなると、鷗外が次に突っ込むのは……

われはこれより逍遙子が對絶對及對相對の兩生涯に及ばむ。(#977参照)

以前、鷗外は「早稲田文学の没却理想」でこんなことを言っていました。

逍遙子の時文評論は果して絶対の地位(聖教量)にありて言ふか。
さらば逍遙子は衆理想皆是なり、衆理想皆非なりといふことを得む。われは唯その一切世間の法に説き及ばざるを惜む。
逍遙子の時文評論は果して相対の地位(比量)にありて言ふか。
さらば逍遙子は空間に禁[イマシ]められ、時間に縛[シバ]られ、はては論理に窘[クルシ]められむ。衆理想皆是なりとは、逍遙子え言はざるべし。彼は衆理想の中に於て論理にたがひたるものを発見すべければなり。衆理想皆非なりとは、逍遙子え言はざるべし。彼はおのれが理想の衆理想と共に非ならむとき、おそろしき絶対的無理想の淵に臨むべければなり。(#716参照)

そして、いよいよ逍遥の時文評論ではなく、逍遥自身へと言及します。

逍遙子が對絶對生涯はその後沒理想期においては、絶對に對して哲學上乃至形而上論上に見る所なきことを指示するに過ぎず。その欲無限の我といふものは無限なる造化を無限ならしむといふに過ぎず。(#977参照)

さて逍遙子が對相對生涯は其腹稿のみの主義なれば今これを評せむすべを知らず。われは唯此腹稿主義の山房論文の逍遙子に向ひて世間法を求めし後に出でたるものなることを記臆しおかむのみ。(#978参照)

ということで、この続きは……

また明日、近代でお会いしましょう!

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