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#992 「始の空・終の空」「始の絶対・終の絶対」「覚前の空・覚後の空」

それでは今日も、森鷗外の「早稲田文学の後没理想」を途中ですが振り返っていきたいと思います。

鷗外は言います。

逍遙子が對絶對及對相對の二生涯の差別なりき。……逍遙子が對絶對の地位を始の空といふ。こは終の空に對していふなり。又始の絶對といふ。こは終の絶對に對していふなり。又覺前の空といふ。こは覺後の空に對していふなり。この地位は立脚點にあらずして數學點なり。……この地位は靜坐にあらずして動くべき性を具へたるものなり。この地位は停りたる水の如し。唯そのいづかたに流るべきかを知らざるのみ。この地位は「タブラ、ラザ」なり。心頭の印銘はことごとく消除し去れり。この地位は發程なり。終の空、終の絶對の歸着處なるに殊なり。この地位は未生なり。(#981参照)

これに関しては、逍遥が「城南評論城主と逍遥子とのパーレー」や「雅俗折衷之助が軍配」で下のようなことを言ったのを受けてのものです。

未生の人は空なり旣に生れて有となり死してまた空に帰す。又喩へんに、無邪無心なる嬰児は、其の心に是非善悪無うして、白きこと白絲のごとし、これを空に比す。已に人となりては是非あり、善悪あり、白絲の染まりたるが如し、これ有なり。悟道徹底して恬憺如たる、これをまた空に比す。空、有、空の三大階段なり。足下は終の空にして、われは始の空なり。……必竟、わが没理想は發程の數學點[マセマチカル・ポイント]なり、Starting pointなり、足下が没理想をもて、立脚地、Standpointとなせるとは同じからず。わが没理想は、未来に向かつて動くべき性を具へたれど、尚母の胎内にあり。足下のは、已に生まれて静坐したり。わが没理想は無なり、幅も無し、長もなし。此の點を一歩一歩追ひて進まば、或は線とならん、或は曲線ともならん、しかれども、終に環となりて、終始相あはんや否や、我れ未だ知らず。(#916#917参照)

あらかじめ我が生涯を二境に分ち、絶対に対するときの我が覚悟と、現世(相対)に対するときの我が本領と、截然区別せんと試みたり。蓋し、わが此くの如く、我が生涯を二分するは、恐らくはわが所謂没理想が未だ、本體と得ならずして、方便の境界にあればなるべし。されば没理想の一變して、有理想となるか、しからざれば方便の没理想が大進化して、本體の没理想とならん時来たらば、我れ竟に二生涯を打成統合して、一生涯となし、絶対に対する覚悟をもて、相対に対すること、或はこれあらん。……今の逍遥が絶対に対するときの心は、猶夫のデカルトがそのはじめの大懐疑のごとし、なべてを疑ひて、是非をひとしなみに見たるのみ。……只悪差別見を擲たんが為に、發途の平等見に立ち戻りたるのみ。即ち絶対に対する時には、我が心の印銘を消除抹殺し去りて、わが心をtadula rasaとなさまくするなり。……ひたすら終の絶対(覚後の空)のみを絶対として、始の絶対(覚前の空)に眼を着けられざりしを見て、かの鰈[カレイ]の一面のみを標準として、黒しといふものゝ非を詰るに似ざるや否やを疑ふ。(#930#931参照)

これに対して鷗外は言います。

覺前空は覺後空に對していふなり。さて覺後空をいかなるものぞと問ふに、逍遙子はこれを覺といひ、知といひ、悟道徹底といひ、聖教量といへり。思ふに逍遙子は聖教量にあらずして衆理想(衆人の哲學上所見)を是ともせず、非ともせざるものは何かあると搜し求めて、つひにこの「タブラ、ラザ」を獲たるなるべし。……逍遙子は其覺前空の地位に住して、われはいづかたにも進むことを得べしといへり。……逍遙子は其覺前空の地位に住して、われをば何人もえ倒さじ、わが沒理想(形而上論上無所見)をば誰もえ破らじと誇りて、別におのが望める轉迷開悟の途を示したり。……逍遙子をばまことに何人もえ倒さゞるべし。後沒理想論をばまことに誰もえ破らざるべし。然はあれど我窃におもひ見るにそのえ倒さゞるは、倒すべからざるものあるが故にはあらずして、倒すべきもの見えざるが故なり。善いかな。奪ふべからざる立脚點は立脚點なしといふ立脚點なり。善いかな。爭ふべからざる形而上論は形而上には見るところなしといふ形而上論なり。(#982参照)

というところで、一旦、振り返るのを終わりにして、再び「早稲田文学の後没理想」を読み進めたいと思うのですが……

それはまた明日、近代でお会いしましょう!



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