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トッド・フィリップス「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」

紛れもない誰にでもよくある悲劇。あるいは勘違い男が空転する喜劇。
獲得なき喪失という虚無へのレールは間違いなく純粋な愛によって敷かれている。あらかじめ掛け違えられた歪んだ二本のレールによって。
一方はアーサーによって。一方はリーによって。しかし嘘から始まる恋は虚像の愛しか結ばない。
そう。リーは出会いから稀代の犯罪者・ジョーカーを愛していたのであるが、アーサーはリーのジョーカーに向ける愛を自分に向けるものだと思えたからこそまた笑い始める=生き始めることができた、すなわちアーサーに戻れるはずだったのだ。
しかしアーサーは自分を見つけてくれたと思えたリーを見つめていたが、リーは自分を肯定してくれたと思えたジョーカーを見ていたということである。
複雑だ。すべてを手に入れたジョーカーはアーカム・アサイラムの過酷な収監によってジョークすら持てぬ無もなき男になっていたというのに、その男に共感と慈愛をもたらしたかのようなリーは本来のアーサーとは似ても似つかないジョーカーを愛している。
打ちひしがれてただ漠然と囚人の日々を送っていたアーサーはジョーカーを求められるが故にどんどんとジョーカーとなっていく。
不思議だ。看守たちになぶられて大人しく無意味な生をまっとうしているアーサーには誰も見向きもしないのに、誰もがアーサーからジョーカーを引きずり出そうとしている。
アーサーが本当にジョーカーなのかや、ジョーカーがアーサーの別の人格であるかなどの、劇中的な問答ほど実は意味のないものはない。
アーサーを法廷に引きずり出したものたちは、ジョーカーを支持して集まったものたちも、ジョーカーを死刑台に送ろうとするものたちも、誰もが「5人」を惨殺してグロテスクな見世物をしてくれた気狂いピエロを主演にした世紀のショーを見に来た無関心で暴力的な赤の他人たちにすぎない。悪徳の賛同者も、正義を語る使者も、それぞれが導き手を、生け贄を求める偶像崇拝者たちだ。
本当のアーサーを見ていた人はいたのだろうか。本当のジョーカーなんているのだろうか。しかしそれゆえに昨今流行りのある言葉が頭に浮かぶ。「本当の弱者は救いたい形をしていない」。
6人を殺したアーサーあるいはジョーカーを「弱者」と呼ぶのは憚られるだろうか。弱さの定義は人それぞれだ。仮に気弱で空想癖のある無口なアーサーが本来の主人格なのだとしたら、攻撃的で支離滅裂なおしゃべりのジョーカーは副人格ということになる。
しかしもし世間が、誰もが、愛してしまった人が、私ではない私を望んでいるのだとしたら。きっとアーサーはジョーカーにならざるをえない。それがたとえ本来のアーサーの思いとは裏腹に残虐さと苦痛に満ちたものであっても。
人は誰もが切り取られた情報の一部の側面から見たいものを見て理解できるものを理解した気になり信じたいものを信じる。アーサーはジョーカーだ犯罪者だと最初から規定している情報から得られる思考はアーサーはジョーカーであり犯罪者であるという机上の考察にしかならない。
アーサーとは誰だったのか。ジョーカーとは何なのか。彼に何が起きてどのようにしてこの法廷の場にいることでああいうことになったのか。実はこの作品で真剣にその点について眼差しを向けていた人は考えられるだけで2人、あるいは故人の言葉を反芻するもう1人だけだ。
もちろんそれはジョーカーではなくアーサーの存在に語りかけようとしたスチュワート弁護士、そしてアーサーの慎み深い優しさもジョーカーの無慈悲な残酷さも目の前に受けた小人症のゲイリー、そしてアーサーの母親ペニーから聞いた息子としての彼の印象を語るミセス・デュモンである。しかしだからこそ「本当の弱者は救いたい形をしていない」のである。
アーサーとしての自我を打ちのめされているアーサーにはアーサーとしての彼を弁護しようとしている誠実な弁護士の言葉は耳に入らず、ジョーカーとして共感し賛美して愛してくれるリーの信頼を得ようとアーサーはジョーカーになっていってしまう。
知り合うためにつかれた嘘さえも愛してしまえば前戯のようなものだ。アーサーこそがアーサーであることを受け入れられずにジョーカーであることに頼ってしまうように、リーは最初から弱く口下手なアーサーにではなく強くおしゃべりなジョーカーへの愛と共感を語っているからこそ、アーサーはアーサーを捨ててジョーカーであろうとする。
そのときアーサーへ救いの手を差し伸べようとする弁護士の助けは、ジョーカーとして愛されるための邪魔以外の何物でもない。愛されたことのない男が誰かに愛されるためには誰もが愛し難い人間にならざるを得なかったという大いなる皮肉。
アーサーはスチュワート弁護士をクビにしてジョーカーとして自己弁護する。そして登場するゲイリーはまさしくアーサーのアーサーらしさも、ジョーカーのジョーカーらしさも目撃した両端の証人だ。弁護士がジョーカーという現象からアーサーという存在を見いだすのだとしたら、ゲイリーはアーサーがアーサーであることも、ジョーカーがジョーカーであることもわかっている存在だ。分裂症などない、ということではなくて、それらは切り離されることなく延長された深層の線上にある両極端な発露なのだ。
それゆえにジョーカーとして振る舞うアーサーはゲイリーから目の前のジョーカーに対する恐怖の言葉を引き出し、それゆえに確かにアーサーの優しさもまたかつてジョーカーのなかにあったのだという言質をとる。
それは果たしてジョーカーにとっては意図していたことだったのだろうか。リーにジョーカーであり続けることへの愛と期待のまなざしを向けられたアーサーはますますジョーカーとして振る舞おうとするのに、アーサーによる大胆なジョーカーらしさはむしろジョーカーの卑小なアーサーらしさを浮き彫りにしていく。
ジョーカーの存在を否定してアーサーの不遇を訴えた弁護士をクビにしたのに、ジョーカーとしてゲイリーを詰問すれば結果出てきたのはアーサーがいかに優しかったかという言葉だ。そしてミセス・デュモンから語られるアーサーの母による言葉は、ジョーカーの現前たる存在性よりもなおジョーカー以前のアーサーが確かにいたことの証明を語る。
それは愛されることのなかった空想好きな少年の姿。愛されようと愛する人の期待に応えようと嘘を信じて真にしようとする健気で哀れな平凡な子供の末路。
まるである映画の言葉が思い浮かぶ。「僕たちは、愛し方を学ぶ前に、嘘のつき方を覚えた」(グザヴィエ・ドラン「トム・アット・ザ・ファーム」)。演技とは言ってしまえば嘘だ。嘘もつき続けていれば本当になるのかもしれないが、本物になれる保証はなく、本物と偽物にどんな違いがあるかはきっと誰もわからない。だから人は演技(嘘)に共感し、演技(嘘)に感動できる。
そして歌とはきっと型押しされた究極的な演技なのだ。五線譜に打点されたリズムとメロディによって言葉に気持ちを、抑揚に感情を乗せて伝えるべきムードやアスペクト、ヴォイスを伝える人類共通の暗号だ。記号だとさえ言っていい。
ある一定のメロディはある一定の振れ幅の感情を喚起して、ある一定のリズムはある一定の振れ幅の気持ちを呼び起こす。だから何故アーサーは歌いジョーカーとなるのか、そして何故リーも歌いハーレイ・クインとなるのか、きっとわかるだろう。
彼らは共に、なりたい自分になるために歌うのである。誰かに愛されるための自分に。誰からも自由な自分に。きっとなるために。
これは劇中外のコンテクストになるのかもしれないが、リーに歌を歌うこと(誰にも囚われない自由)を教えたのは他でもないジョーカーだ。だから彼女はジョーカーの破天荒な暴虐に自由を感じて彼を愛して歌を歌う。そのとき彼女はハーレイ・クインでいられる。そしてアーサーに歌を歌うこと(愛されるための気持ちの発露)を教えたのはまたリーである。リーからの熱いまなざしに応えるように愛を感じて愛を歌う。そのとき彼はジョーカーでいられる。
もしこの物語の結末を鑑みて答えるとすれば、ジョーカーであろうとしたアーサーは偽物のジョーカーだったのであり、ジョーカーを信奉し続けたリーは本物のハーレイ・クインだったのだろう。
嘘をつき続けることはプレッシャーだ。それが誰かの期待に応えるための、いわば曖昧な答えが始めから決められた「演技」(嘘)であるならばなおさらだ。
それはジョーカー役によって念願のアカデミー主演男優賞を獲得してこの続編に臨んだホアキン・フェニックス自身のプレッシャーとも重なるのかもしれない。誰もが脳裏に刻んだ「ジョーカー」を再演しなければならないということはどんなことなのだろう。
前作で判然としなかったアーサーとジョーカーの往還は、しかし今作にて明らかに決然とした切り替わりによって演じ分けられている。そこにあるのはリー=ハーレイ・クインという人形使いの影なのである。
「本当の貴方を見せて」と言われて見せるアーサーの姿は化粧を“させられて”いる。アーカム・アサイラムで虚ろなまま口数のないアーサーは、リーによる拳銃自殺のジェスチャーによって自惚れと怪しげなにたつきを再び手に入れる。それはまさしく本来の自分であるアーサーを殺してジョーカーとして生きるためのスイッチングだ。前作でアーサーを喪失してジョーカーになっていった男は、アーサーに戻らされたことでファム・ファタールを得て、むしろジョーカーを演じていくのである。
それは悲劇だ。自然に生まれたものを再現しようと演じてしまうという歪さ。アーサーが生んだ狂気としてのジョーカーに感化されたものによってジョーカーであることを求められているのにどうしたって自らがアーサーであることを自覚せずにはいられない矮小な悲劇。
つまり法廷に現れる証人たちは、アーサーはジョーカーであると結論するもの、アーサーのジョーカー性を語るもの、ジョーカーである面とアーサーである面を語るもの、そしてアーサーはアーサーであることを語るものと移行していくわけであって、それはリーの(ジョーカーへの)愛を受け入れてジョーカーであろうと努めていたアーサーが自らがアーサー以外の何物でもないことを自覚させられていく構図である。その過程は、始め果てしない愛とこの世の全てを手に入れたような大いに興奮することであり、そして終わりには何物も持ち得ず何の力もなく誰からも見向きされない存在として自らを再認識するようなひどく憐れで滑稽なものだったことだろう。
ミセス・デュモンが語る母親からの伝聞を聞いて打ちひしがれるアーサーの姿はもうジョーカーではない。帰路、不興を買った看守たちのリンチにあってメイクを剥がされたジョーカーは彼を支持するシンパの少年が殺される音だけをまばたきもせずにじっと見つめることしかできない。
傲岸不遜、大胆不敵なジョーカーは、実に無力なアーサーだ。それはまるで糸の切れた人形。判決の日、法廷にリーはもういない。演技性パーソナリティ障害などと一言で片付けてしまえばどんなにた楽だったかもしれない。
しかしこれは映画だ。それも持たざる者たちの中の真に誰からも相手にされなかった人間のための映画だ。ジョーカーという虚構のスターを演じて深い愛も熱い声援も手に入れたはずの男は、しかし本当の自分を見てくれる人も声をかけてくれる人も持ち得ず、何も持たざるゆえにいつまでも嘘をつき続けて、いつかその嘘に自分自身が押しつぶされる。
そもそもアーサーは本当の自分というものすら本当は誰なのかわかってなかったことだろう。自分のことは自分がよくわかっているなどと言えるものは「自分」のことを観測してくれる他人に囲まれている恵まれた御人だ。
だからアーサーはジョーカーの集団に助けられても、ジョーカーたちからこそ全力で逃げている。ジョーカーたちが助けるのはジョーカーであって、ジョーカーになりきれなかったアーサーではないからだ。
そこにジョーカーになれなかったアーサーのありったけの優しさとありふれた悲しさとろくでもないつまらなさが躍動している。
だから逆にジョーカーであることを諦めてアーサーでしかないことを告白した彼に三行半を突き付けるリーこそは生まれながらに本物のハーレイ・クインだったと解釈できるだろう。破壊を望み混沌と心中する女道化師の姿だ。
だからふと、この映画は「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(二人狂い)という妄想感染を意味するタイトルから、すなわち“ジョーカー”性の伝染を描くように思われたけれど、むしろジョーカーは狂気ゆえに正気に戻り、ハーレイ・クインは正気ゆえに始めから狂気の存在だったことがわかる。
狂気に近づくために自ら閉鎖病棟に入るものが正気なわけはなく、まともな人間なら初対面の相手に始めから嘘をつくことはない。アーサーが欲しかったのはきっと理解者だ。リーが求めていたのはたぶん共犯者である。愛の形は様々で、見かけは遠目に同じに見えても、それは天と地ほどの距離のある愛の異物だったろう。
前作がジョーカーという正常な狂気の波紋の波を描いていったものであるなら、今作は波が縁まで達したあとの物語だ。波にのまれた水面は揺れ動き続けていても、一度大きなうねりを出した波紋の中心は静かなのである。
だから今作は「ジョーカー」の続編ではあるけれど、「ジョーカー」なんてどこにもいなかったのだと言えるのであり、それゆえに「ジョーカー」はどこにでもいて誰でもあるのだということを示す一作になっている。
それは、同じ苦しみを味わっているのあなただけではないと孤独の連帯を知らしめた1作目と対になるように、苦しみを味わっているからといってあなたが特別なわけではないと、持たざる者たちの傲慢さを裏打ちする正当な続編だ。
つまり前作が多くの人がひっそりと持っている「ジョーカー」という自分だけの特別なカード(感情)を引き出したのとは逆に、今作は「ジョーカーという特別なカード」でさえも誰もが持っている、ある条件で簡単に引き出されるようなありふれたカード(感情)なのだということがジョーカー=アーサーの弱さによって露呈されるのである。
そう、むしろ今作ではジョーカーではない者たちこそがジョーカーらしいとも言える。大胆不敵で傲岸不遜。法や秩序を省みず、自らを正当化して仇なす者に中指を立てる。
ジョーカーを特別視する人たち、心のどこかにジョーカーを抱える人たちのあまりの平凡さと個性のなさは、すなわちその態度と言葉と一律で工夫のないメイクとお面に表れる。
期待と憧れを浴びた虚構のリーダーがスターの座を自ら降りるとき、それは失望と軽蔑の瞬間だ。おもしろい嘘で皆を楽しませたものがつまらない真実を語るときほど人の憎悪を買うときはないだろう。
たとえば純愛ラブロマンスで名を馳せた俳優が私生活で泥沼の不倫劇を暴かれるように、他人のイメージで生かされた人間はそのイメージを裏切ったとき、その信者から牙を向けられる。
だからこの物語の結末は呆気なくも当然の帰結だ。憎悪のスーパースターもまた憎悪によって殺される。アーサーを殺した彼が何者だったかなんて考察は無意味だ。なぜならアーサーもまた誰の目にも止まらない名もなき人だったはずだからである。
ジョーカーは誰でもあるから誰でもなく、どこにでもいるからどこにもいない。誰もがどこかでジョーカーなのであり、実は誰もがジョーカーになんてなりたくないのかもしれない。
誰かに愛されるために何かになろうとしてもそれは本当に自分が自分でいられる何かなのだろうか。人は他人のイメージを勝手に決めて、そしてまた自分のイメージすら他人のイメージに合わせてしまう。それが社会性なのかもしれないが、他人のなかに自分はいないのであり、あるいは自分のなかにすら確固たる自分なんていないのかもしれない。
もし一つ空想を広げるとしたら、ジョーカーになりきれなかったアーサーをまるでジョーカーのようにジョークを言いながら笑って刺し殺した彼こそが真にジョーカーとなれる男なのかもしれない。
だとすればトッド・フィリップスの描く「ジョーカー」2部作はまさしく“ジョーカー”という悪の誕生を描く物語として納得がいく。「フォリ・ア・ドゥ」の二人とはアーサーとリーではない。アーサーがもたらした波紋によって狂うことを自分に許した、まだその名を持たぬ“プレ・ハーレイ・クイン”であり、まだその者とはなってない“プレ・ジョーカー”のことなのだと早くも新しい“ジョーカー”に期待してしまう私もまた一人の平凡な「ジョーカー」なのである。

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