076.見える世界が本当に違うように見える N.R.さん
※テニスゼロよりひとことコメント
▶欲を満たそうとするから辛くなる
私もほとほと痛感しますけれども、「結局欲を満たすため」という生き方は、辛すぎます。
「こうなりたい!」「あれを手に入れたい!」という欲は、一見するとエネルギッシュで明るい印象かもしれませんけれども、その内実はまだ手に入れていない以上、やっぱり苦しい!
そして手に入れたとしても、手に入れた瞬間がピーク。
テニス選手で言えば、グランドスラムタイトルを獲ってコート上で大の字に寝そべり、遠い空を見上げた瞬間。
優勝スピーチで「まだ実感がない」という選手の場合は、夜の祝勝会あたりがピークでしょう(関連記事「気持ちが『移り変わる』から生きていられる」) 。
▶「『祭りのあと』が苦しみの本質」(再考)
そしてその喜びの刺激に飽きて、冷めて、虚しくなるのもまた、苦しみです。
専門用語では「(えく)」といったりしますね。
私はよく「祭りのあと」とたとえます。
喜びのピークが、家路につく帰り道で徐々に、あるいは急速に冷めていく寂しさが「苦しみの本質」であり、その変化を上手く自分の中で位置づけられないと、タイトル獲得後にバーンアウトしていく選手もいます(関連記事「『祭りのあと』が苦しみの本質」)。
買う前は喉から手が出るほど欲しかったブランド物のバッグをいざ買っても、使う以前に、もう興味が薄れるようなものです。
そしてすでにすべての人が、(絶対に認めたくはないのだけれど)薄々気づいているように、欲望する心のブラックホールには、何をどんなに入れても、結局満たされることはない!
▶「欲を消したい」という欲
いたずらに「欲しい欲しい」といって、欲を甘く見ない。
心身にも不調を来して、具体的な病名のつく精神疾患や、肉体的苦痛をも招きかねません。
とはいえ、敵対してもなりません。
「欲を持っちゃダメだ!」「欲なんか消えて無くなってしまえばいいのに!」という敵対構造からは、「平和」「安心」は決して築けないからです。
むしろ、「欲を消してしまいたい!」という新たな欲が増え、心身にさらなるタメージが及んでしまいます。
▶「客観視」して「認める」
どうすればいいでしょうか?
いつも申し上げているとおり「客観視」し、そして、ご指摘いただいているとおり「認めてやる」のです(関連記事「苦手は苦手と『ありのまま』を認知する」)。
「こういう欲があるんだな」「今はこうなりたいと思っているんだ」「これが欲しいと思っているのか」といった具合に。
こちらでご紹介した「不安から抜け出す魔法の言葉」と同じ効用。
▶キートン山田方式
私はかつて「キートン山田方式」などと言って、ご紹介していました。
『ちびまる子ちゃん』のナレーターよろしく、「今日はかなり落ち込んでいる様子の吉田さんであった」などとカッコにくくり、自分客観化に役立てます。
そうして客観視し、あるがままに認めてやると、欲(あるいは怒り)の言いなりになりにくくなります。
▶精神エネルギーの「リサイクル」
するとおっしゃるとおり、「まったく別の世界」が見えてきます。
なぜか?
今までは欲として使われてきた強大な精神エネルギーが、今度は集中力として「リサイクル」されるからです。
精神エネルギーも有限ですけれども、エネルギー保存の法則が働いてくれるのです(関連記事「精神エネルギーも『有限』」)。
見えるもの、聞こえるものは、よりハッキリ、クッキリと見え、聞こえるし、味わえるものは、シンプルな味付けの中にも、豊かなバリエーションを求めることができます。
▶イチゴの味の豊潤なバリエーションに気づく
もったいない話です。
有限で大切なエネルギーはそうやって、知らず知らずのうちに「分散」しています。
欲に、怒りに、思考(混乱)にと……(関連記事「ジュニアが『速く・高く』上達する理由」)。
それら分散していたエネルギーを束ねて「集中力」として使えるようになると、見える世界が本当に違うように見えてくる。
同じ房のイチゴを食べても、1粒ずつ違う味を楽しめます。
エスキモーが、私たちが「白」と表現する色の語彙を、数十種類持っているようなものです。
私も長くなりましたので、テニスのことは分けてお応えします。