テニス上達メモ047.完璧主義の人の「自己肯定感が著しく低い理由」と、テニスも仕事も家事も創作活動も「パフォーマンスが上がるとっておきの方法」
▶不安は誰にでもある「心のアラート」
今週末の試合に自信がない。
不安だという人がいます。
ええ、大抵そうでしょう。
自信たっぷりで、一抹の不安もないという人は、なかなかいません。
もしそういう人がいるとしたら、その人は不安がないのではなく、緊張感が足りていないのであり、リラックスできているのではなく、気持ちが緩んでいたりする。
不安があるからこそ、試合に向けた体調管理やストリングのテンションメンテナンスに気を配れたりします。
不安は、そういった準備に働きかけてくれる「機能的な心のアラート」です。
▶「完璧な結果」を目指してしまう心理
挑戦するシーンにおいて、誰であれ一抹の不安はあっていい。
その上で、不安で心配だという人の何が問題になりやすいかというと、「不安をなくして、完璧なテニスをプレーしたい!」と考えて苦しむこと。
何事もそうですが、やはり、完璧にできると気持ちがいいものです。
とはいえそう願ったからといって、必ずしも完璧にできるわけではありません。
テニスだけではなく、後述しますけれども、こうやって私がnoteに投稿する内容もそう。
完璧を期すると、過剰に不安になって、自信がなくなります。
そして、自信がない自分には自身の価値が感じられないから、完璧な結果を目指してしまうという心理的構図です。
▶結果にこだわる「理由」
どうして、完璧主義になってしまうのか?
それは「自己肯定感が低い」からです。
ややもすれば、逆の印象かもしれません。
「自己肯定感が高い=完璧」だと。
「自分が完璧になれば、自己肯定できる」と。
ですが、そうではないのです。
ありのままの自分でいると「価値がない」と感じるからこそ、せめてテニスのパフォーマンス、あるいは仕事や、家事、育児も、完璧に結果を仕上げたくなるのです。
▶自己肯定感は「逆のイメージ」になりやすい
ありのままの自分では「受け入れられない(自分でも、こんな自分は受け入れ難い)」と感じられるからこそ、自分の価値を高めようと腐心せずにいられない。
一方、自己肯定感が高い人は、テニスのパフォーマンス、あるいは仕事や、家事、育児が完璧じゃなくても「自分には価値がある」と思えるから、結果は特段完璧じゃなくても、構わない。
やっぱり、逆の印象ではありませんでしたか?
自己肯定感が高い人は、完璧である。
自己肯定感が低い人は、テキトー。
テニスにおける「現実に対するイメージのズレ」のようなもの。
そのイメージは、「逆だった」のです。
▶「どうせ自分には価値がある」
自己肯定感が高い人は、テキトー(ちょうどいい意味の適当)で、十分だろうと感じられる。
どうせ自分には価値があるから。
半面、自己肯定感が低い人は、完璧にしないと「自分には価値がない!」と、焦りを感じてしまう。
自分には価値がないから、せめてテニスのパフォーマンス、あるいは仕事や、家事、育児も、完璧に仕上げたくなる。
そうしてありのままの自分だと価値が低いと、心の奥底で感じているからこそ、躍起になって高めたくなるのです。
また人に教える優越感を通じて「教え魔」と化すのです。
▶自他ともに苦しむ
あまつさえそういう人ほど、自分には価値がないと本心では感じているからこそ、表面的には「自分は価値がある素晴らしい人間なんだ!」などと、思い込もうとしたり、他人にも、押し付けようとしたりしがちです。
ですから自己肯定感が低いと、自分が苦しむばかりか、周りの人にも負担を強いてしまいます。
▶「やり直し」を忌避する人
創作物なども、そうではないでしょうか?
完璧に仕上げたくなりがちです。
私もこのnoteに投稿する際、なるべく完成度を高めたいのはもちろんですけれども、完璧を目指すと、ひとつも投稿できません。
あとからいくらでもやり直し(書き直し)はできるのですから、完成度は60パーセントぐらいでいいでしょう。
100パーセントを目指さずにはいられない完璧主義になると、この「いくらでもやり直せる」 柔軟な発想が出てきません。
一発で決めたくなる(やり直しなど避けたい)頑なな態度を、取るようになる。
「やり直しなど一切必要としない、完璧な人間でありたい!」などと、思い込みたいのです。
そういう人は、プライドが高いから本当は苦しいのです。
そしてプライドの高さと自己肯定感の高さは、印象に反して反比例の相関です。
▶完璧「じゃなくていい」
逆に完璧じゃなくてもいいと考えると、すごく気楽になれるのではないでしょうか?
完璧じゃなくていいんだ~。
これを日常生活を含め、いろんな場面に当てはめてみるというご提案。
振る舞う料理の味は、完璧じゃなくていい。
拭き掃除は、完璧じゃなくていい。
スケジュールも、完璧じゃなくていい。
会話も、完璧じゃなくていい。
失敗して相手ともめたとしても、あとからいくらでもやり直し(仲直り)はできるのだし、したくないならしなくていいという、非完璧ぶり。
「絶対、仲良しじゃないとダメ!」という完璧からのエスケープ。
あ~気楽です(笑)。
▶完璧を期すると完璧から「遠ざかる」
適度な緊張感を保ちつつ、気楽でいられると、テニスも、仕事も、家事も、育児も、パフォーマンスが上がりやすくなります。
そもそも最初から完璧を期すると、結果がどうなるのか怖くなるから、料理を振る舞うのも、計画を立てるのも、相手に電話するのも、ためらいがちになりはしないでしょうか(「成功しかない」必ず結果が出る方法はこちら)。
「完璧であるべき」という「べき思考」が、怖れなのです。
完璧を求めて頑張ろうとする姿勢は、尊いのではなく、自分の価値を信頼していない深層心理の表れ。
しかもテニスの試合では、完璧を期するあまり、過緊張を招く原因になります。
その結果、むしろ発揮できるパフォーマンスは「完璧から遠のく」のです。
▶プレッシャーが「味方」になるとき
「不安はあるんだ」「緊張もするんだ」とありのままの自分を受け入れるようになったとき、自己肯定感が高まって、プレッシャーも「味方」になってくれるでしょう。
プレッシャーは交感神経を刺激し、酸素供給量を増やし、心拍数を上げて、動ける体を準備します。
手にじっとり汗をかくのは、グリップ力を高めてくれる体による反応。
体は本当に精緻です。
▶世界を変えるには「自分が変わればよい」
「他人は変えられないけど、自分が変わると世界が変わる」などと、よく言われます。
私はこの「自分が変わると」の部分に関して、「自分の何が変わると?」なのかを、自分自身を実験台にして研究、実践してみました。
その結果、「自分の自己肯定感が変わると」なのだと確信するに至りました。
つまり、「自分の自己肯定感が変わる」と、他人が変わり、世界が変わります。
ただし自己肯定感というのは、繰り返しになりますが、真逆の印象になりがちです。
「自己肯定感を高めるために、完璧を目指す!」といった具合に。
「自分が完璧になれば、自己肯定できるはずだ!」と言った具合に。
それだとむしろ、非完璧になるというパラドクス。
▶「こんな自分のままじゃダメ」なの?
もちろん自己肯定感が高まったからといって、いつもテニスの試合に勝てるわけではありません。
負けることもある。
だけど負けたとしても、「勝負なんだから、まあこんなこともある」と、納得できるようになるのです。
自己肯定感が低いと、「こんな自分のままじゃダメだ!」などと責めてしまいがちです。
▶「人生に失敗」しても
もちろん、テニスの試合に限った話ではありません。
人生全般で、失敗することもある。
だけど失敗したとしても、「まあこんなこともあるさ」と、納得できるようになる。
失敗から、そこに意味や価値を見出して、むしろ自分を大切にできるようになったりもします。
いえ人生は実験のプロセスなのですから、「失敗はない」のです。
▶「事実は小説よりも奇なり」。自己肯定感が世界を「劇的に」変えた
失敗して自分を責めるのと、自分を大切にできるのとでは、すっかり逆の反応。
他人にも負担を強いないし、他人に振り回されなくもなります(逆に自己肯定感が低いと、他人に認めさせたい負担を強いて、なおかつ自分を大切にできないから、過剰に遠慮ばかりして、他人の言動に振り回されてしまうのです)。
ですから自己肯定感が高まると、世界が「劇的に」変わるのです。
まさしに「事実は小説よりも奇なり」です。
即効テニス上達のコツ TENNIS ZERO
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