私たちは「星座」の網の目にとらわれて生きている.カントが「純粋理性批判」で描き出したように,ヨハネ福音書の冒頭の句「はじめに言葉(logos)ありき」という言葉が象徴するように,人間の思考がロゴス化することは止めようがない.そこで「ロゴスlogos」とは別の思考のあり方として山内得立は「レンマlemma」という思考の枠組み,土方巽は「暗黒舞踏」,福岡伸一は「動的平衡」という言葉と概念を打ち出すことで,私たちがいかに言葉やロゴスlogosの呪縛から逃げられない生物なのかを露呈させた.(だが私たちは’’直感だけ’’で千角形の内角の和を求めることは不可能であり,漫画「Dr.STONE」が物語の中で提示しているように経験を積み重ねることで見えてくる真実もある)千葉雅也「現代思想入門」や國分功一郎「暇と退屈の倫理学」も’’ベストセラーになるべくしてなった’’と言えるのではないだろうか.(「陰謀に対する処方箋」國分功一郎,斉藤幸平)
生物学をほとんど学んでいない学生に膵臓の細胞の写真を見せて「スケッチしてみなさい」といっても何も描き写せない.なぜなら,写真に写っているものをどこでどう区切るのかよくわかっていないから,どれが1つの細胞の単位なのか判別できない.しかし,そんな学生たちも1年かけて細胞の構造を座学で勉強すれば,教科書に載っているような細胞の図を誰にでも描けるようになる.しかし,それと同時に,最初にその写真を見たときの「このモヤモヤした名もない構造にこの細胞の中が満たされている」ということが,学生たちには見えなくなる.
これは「痛み」や「生きづらさ」にも言えることではないだろうか.
心理学や哲学,言語学や歴史学をほとんど学んでいない学生に,「自分の(他者の)痛みを言語化しなさい」といっても何も言葉にできない.しかし,書店や図書館に行って専門書を一冊でも読み通すことができれば「痛みの細胞図」は誰でも描けるようになるだろう.だがそれと同時に,自分が(他者が)痛みを感じたとき,その痛みを「これはモヤモヤした名もない構造だ」とはとらえられなくなる.
そんな日本人は現代において増加し続けている,昔は日常生活の中で知らず知らずのうちに宗教教育が行われていた,と臨床心理学者の河合隼雄氏は言う.そういった「文化装置」が働かない中で科学教育を行うことは「はじめから世界は言葉によって分かれているんですよ」と教えるようなものである.「あなたたちは神の子なんですよ」そう伝えているようなものである.令和の時代に「そろそろ雨が降るよ」と言えるような,内なるphysisを秘めている人間は,あなたの周りにはほとんど存在しない.だから「同じ名前を持っているけどあなたとわたしは違う」とか「もう不登校じゃないから生きづらくないよね」というふうに,モヤモヤした名もない構造を見ることが出来ない人間が増えた.そのせいで,名もない痛みを持った人間が苦しむ構造が出来上がっているのは説明するまでもないだろう.
熊谷晋一郎は病気や障害に関わる偏見を「スティグマ」と名付けている.スティグマとは、唯一無二の心身と背景を持つ多様な人々を、大雑把にグループ分け(カテゴリ化)し、特定のグループに対してネガティブな認識や行動を向けることを指す.スティグマは以下の5段階から構成されると定義される.そもそも人間がなぜ「スティグマ」を持っていくのか.それは「ダウン(=ある一定の人々の価値を貶める)」「イン(=ある特定の人たちを自分たちの仲間に引き寄せる)」「アウェイ(=ある特定の人たちを自分たちから除け者にする)」の3つの欲望が存在するためだと言われている.
また,精神科医の中井久夫は「治療文化論」のなかで「精神疾患は文化や個人史といったローカルな特性の影響を受けやすい」と論ずる.「痛みに名前をつけること」は「衣服を着ること」に似てはいないだろうか.各人の個別の症例に即して適切な「衣服」を処方することができれば人は少しの間だけ,気を休めることができるのかもしれない.「死にたい」と言う人は本当に死にたいわけではない.「死にたい」と言う「衣服」を身に纏うことで,生きづらさを表現し気を休めている.だがその「衣服」も次第に着れなくなる.’’着たくなくなってしまう’’.そのため、その都度「修繕」して長く着続けるか「新しい衣服」を購入する必要がある.再び既成のものにならないために「生成しながら消滅」するのだ.われわれは「命がけで突っ立った死体(=生体即死体)」なのだ.
「西洋知の中で物事が語られてしまっている(領域を設定するとすぐに細分化される)」と編集者の松岡正剛が言っているように,東洋知そっちのけで,ジェンダー問題も多様性も環境問題もすぐに細分化される現代.「不登校もジェンダーも発達障害もみんな同じ部分があって,違う部分があるじゃない」なんて言葉を漏らしたときには,激しくバッシングを受けるどころか,取り上げることすらしてもらえない.
坂本龍一は,米国の哲学者・美術研究家であるアーネスト・フェロノサに影響を受け,一日中「名詞を使わない」思考実験を行ったことがあると述べている.
1970年代に,ロックバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」の一員として活躍し、ソロ活動を展開してからも自身の音楽を単一のジャンルに絞ることなく、クラシック音楽、ポップ、ジャズ、アンビエント、エレクトロニカなど、多様なジャンルの要素を組み合わせ,独自の音楽的な表現を追求していた坂本龍一という人物でさえ,「ロゴスに縛られている」という感覚から抜け出せなかったという.
今日の科学では「因果」は説明できるが「縁起」は説明できない.では,私たちは「ロゴス的な知性」をより拡張された「別の知性」で補完できる可能性はあるのだろうか.そもそもその「別の知性」は本当に,存在し得るのだろうか.
そこで思想家の中沢新一は,現代科学を補完する存在として「レンマ学」という新しい「学」を創り出す必要があるのではないか,と問うている.古代ギリシャでは「理性」という言葉には2つの意味(ロゴスとレンマ)があった.「事物を取りまとめて言説化する」という意味の「ロゴス」という言葉と共に,「直感によって丸ごと把握し表現する」という意味の「レンマ」という言葉が共存していた.この「レンマ的知性」をあらゆる方面で探求しているのが「華厳経」であると,中沢新一は語る.(河合隼雄も日本人の心性を理解するにはこの仏典を研究することが極めて重要であると喝破しており、1980年代の中頃には「華厳経研究会」を開催.ここには養老孟司も参加していた.)
中沢氏の詳しい論説は当著を読んでいただくとして,この「レンマ的知性」と「痛み」がどのような部分で関連性を示すのかについて,私の考えを示したいと思う.
私はさまざまな人の悩み相談を受けている中で「なんで動揺しないの?」と何度も問われてきた.「今すぐ死にたいんだ」とか「難病をもっているの」とか「学校で壮絶な仲間はずれやいじめを受けていたの」とか「わたしは男の人をためしているの」とか,何をどんなふうに聴いても動揺しない姿を見て相談相手は「こんなこと今まで誰にも話してこなかったのに」と思わず驚嘆する.河合隼雄のカウンセリングを受けたあるクライエントは治療を受けた際に「この人は’’たましい’’を聴いてくれている」と感じたと言っていたが,わたしも似たような体験をしているのではないかと思った.
わたしが「名前のない痛み」でつながるという言葉で示したいものは「華厳経」の「有力」「無力」と言う概念でも説明できると思った.以下の画像は,わたしが団体設立当初に「名前のない痛み」の説明のために作ったものである.これを作った頃は全く哲学や仏教というものに触れていなかったが,驚くほどに似ている考え方である.
「他者性」や「自己同一性」といった哲学的主題は,このような考え方を理解する上で大事なものであると,わたしは思う.これは,土方巽が『暗黒舞踏』でわれわれに問うたものでもある.身体そのものが,われわれのコントロール下にあるわけではない.そんなことはわかりきっているのに,どうしても「自分の身体」とわれわれは錯誤してしまう。
「この言葉を言うとあなたを傷つけるかもしれないから」そんな言葉に現れているように『痛み』を自分自身でコントロールできると自分に言い聞かせ,自己嫌悪に陥る過程にある人たちを私はたくさん見てきた.このような言葉を聞く度に「傲慢だわ.あなたにわたしを傷つける力があると思わないで」と言いたくなると共に「仏教」が「文化装置」として働かなくなった現代に虚しさが蔓延しているのを,まじまじと痛感するのだ.
今文章にできるのはここまで,また更新します.
(2023年5月29日投稿)