マムレーエフ『穴持たずども』
昨今では教育上の観点からということで、「桃太郎」や「さるかに合戦」の結末すら非暴力的なものに改変されているそうですが、ユーリー・マムレーエフによるこの稀代の怪作を世の良心的な紳士淑女が読んだ暁には、怒り心頭になるか卒倒するかに相違ないので、あまりこの小説が日本で広まらないよう密かにお祈りするばかりです(万人受けする作品ではないと思うので、そんなの杞憂かと思いますが……)。
白水社ミノタウロスシリーズの前作『幸福なモスクワ』ではエンジニアや医師といったエッセンシャルワーカーたちが主役級で描かれるのに対し、本作の主要人物たちは漏れなく不要不急(好き)。ウォートカ片手にヒステリックに哄笑したり、彼岸まで思考を巡らせつつ「狂気を!狂気を!」と喘いだり、ソ連すでに成熟期とはいえどんな有閑階級やねん!と思いましたが、まあ社会主義であったからこそ、最低限の生活はできていたのですね。
グノーシスという通奏低音
SNS等での反応を見る限り、変態的で奇怪な嗜癖を持つ登場人物たちの描写が何かと話題になっています。確かに、主人公の1人と目されるフョードル・ソンノフをはじめ、神様に賄賂を送らずとも地獄行き優先パスポート(片道分)をまとめて即日発行されそうなこの異常な連中どもに比べれば、『チェヴェングール』に出てくるおかしなメンツが俄然マトモな人たちに見えてくることは請け合いです。しかし、この小説、お読みいただければ何方も気づかれるとおり、キャストたちのぶっ飛んだ言動の傍らで、かなり深遠な形而上学的苦悩が展開されていますね。
以前の記事(こちら)で言及したとおり、ロシア哲学史においては、いわゆる「(純粋な)哲学者」たちに混ざり、ドストエフスキー、トルストイ、プラトーノフといった文豪たちがロシア哲学の重要な楔としてぶっ刺さっているのですね。『穴持たずども』の本の帯に「ドストエフスキー、プラトーノフらの衣鉢を継ぎ……」とあるので、マムレーエフもその哲学者の文脈に入れて差し支えないでしょう(というか、この小説の完成に至るまでに明らかに哲学的格闘を経た形跡が見受けられるので、当然に入れられるべきでしょう)。
で、そのロシア哲学の大きな背骨の1つとなっているのが「グノーシス主義」です。この言葉に馴染みのない方も多いかと思いますが、ざっくり言ってしまえば「ロジックを突き詰めるのではなく、この世の真実についての神秘的ないし直観的な神の啓示の体験による知識/霊知(グノーシス)を獲得して、救済を得よう」とする思想です。元は、1世紀~3世紀頃のキリスト教異端思想であったのですが、おもに東方(すなわち西方のカトリックに対置されるものとしての東方)で脈々と受け継がれ、かの聖アウグスティヌスが若き頃に入信していたマニ教もその強い影響下にあります。なお、周知のとおり、そのアウグスティヌスは後に西方(カトリック)を代表する教父として大成し、キリスト教に回心後の彼はマニ教に対し舌鋒鋭い批判をしまくっています。西洋の中世哲学(ニアリーイコールほぼ神学)の歴史は、アウグスティヌス型の正統派キリスト教思想とグノーシス主義的思想とのせめぎ合いの歴史であり、教科書的理解では前者が西欧を覆いつくし、「哲学は神学の婢女」(聖トマス・アクィナス)とも言われ、ローマ教会の絶大な権力とともに唯一神が絶対化した一方で、人間どもは周縁に追いやられ、西欧で異端思想を喧伝して回ろうものなら拷問に処された上でトロットロに火炙りされてしまうという憂き目に遭うのが定跡となりました。この時代は、「暗黒時代」とも揶揄される文化停滞期にだいたい一致しますね(かといって、グノーシス主義が西欧で覇権を握っていたとしても、それはそれで酷いことになっていたような気がしますが)。その後、周縁に追いやられた人間をもう一度中心に据えようということで、キリスト教以前の古代ギリシャや古代ローマの文化に触発され、それまで高々と君臨していた煩瑣なスコラ哲学(スコラはグノーシスとは真逆で、神学をベースにひたすら地道なロジックを積み重ねていくというアプローチの哲学なのですが、やたらと微に入り細を穿つ議論に固着し過ぎて収拾がつかなくなるという難点もあります……)を地上の高さまで一気にひきずり降ろしてやったのが、14世紀頃からのルネッサンスというわけですね。地動説によって神のみならず地球さえも周縁にぶっ飛ばしちゃいましたが。
エピファニーへのスキップ
ということで、西方において早い段階で一気にシュリンクしていったグノーシス主義は、ビザンティン帝国を含む東方にてひっそり受け継がれていきましたとさ。なので、先述の「西洋での正統派キリスト教思想とグノーシス主義的思想とのせめぎ合い」といっても、事実上、西方では前者が確かな覇権をがっつり握り、後者は東方でじんわりと続いていったというのが分かりやすい見取り図ですね(ただし、西方においても、暗黒の中世を生き抜いたグノーシス的異端思想の伝統は、中世後期ないしルネサンス期にドイツ神秘主義哲学として屈折した形で湧出しました。マイスター・エックハルト、ニコラウス・クザーヌス、ヤコブ・ベーメ等、中世哲学ファンにはお馴染みの面々ですね)。
その上で注記しておかなければなりませんが、グノーシス主義はロシアの精神的土壌と好相性だったようで、中世ルーシにおいて、グノーシス主義思想はやたら蔓延しました。西欧中心の教科書的な世界史ないし思想史においてはこと見逃されがちですが、この点はロシア哲学を俯瞰するに当たって極めて重要な部分です。
グノーシス主義は、霊と物質、善と悪、神と悪魔といったまあ分かりやすい二元論が特徴で、根底には、世界が原理的に抱える欠損に由来する究極の知識への渇望感があります。神秘体験を得るために禁欲的な修道生活を集団で送ることもままあり、『穴持たずども』では、第2部で登場するミヘイが入り込んだ「去勢派(スコープツィ)」もその影響下にあるセクトの1つでしょう。ぐるぐる回ったりピョンピョン飛び跳ねたりして、理論を超越した神秘体験を得ようと恍惚的な様子で儀式が執り行われています。グノーシス主義では、「肉体」は「悪」という観念と結び付けられやすく、去勢派は「肉体=悪」の図式をオーヴァーランさせて、男性器や女性の乳房の切除という痛々しい儀礼を持つに至ったわけですね。
そして、この小説の主要な登場人物の1人であるアナトーリー・パドフ、彼は元々、形而上的なものは「否定神学」的な方法、つまり「……でない」という否定の言明によってしか接近することができないという思考鋳型の持ち主でした。もっとも、彼の場合は、何事にも疑ってかかる「懐疑主義」と一定程度重複している部分があるかと思いますが、彼がまだ幼い頃、イマヌエル・カントの「物自体」(人間の先天的な認識能力によっては絶対に認識し得ないもの)という観念に初めて触れた時に戦慄を憶え、以降、その観念が強迫的なオブセッションとなり彼につきまとったというエピソードからも、彼が「絶対に認識できないエックス」に苛まれて否定によるアプローチに辿り着いたという面は見逃せないと思います。キリスト教における否定神学の伝播は、偽ディオニシウス・アレオパギタという、カトリックにも多大な影響を及ぼした5世紀~6世紀ごろの東方の神学者の書によるところが大きく、ロジックを突き詰めていかずに究極の知識ないし叡智を得ようとするグノーシス主義のような神秘主義と近しい関係を結んでいます。
この小説において、アナトーリーやアンナ、リョーミン、イズヴィツキーといったインテリ仲間たちは、彼らの形而上的会話を見る限り、その根本にグノーシス的な志向があります。本稿においては、この小説中の具体的な場面として1つだけ、第2部のアンドレイ・ニキーチチの「第二の誕生」お祝い騒ぎの後のあたり、イズヴィツキーが村に到着してからの一幕を見てみましょう。
ある晩の、ほかの皆が寝静まった後のソンノフ家の2階のひっそりとした部屋の中。アナトーリー、リョーミン、イズヴィツキーの3人で、蝋燭の明かりのみを頼りに、ウォートカを飲み交わしながら哲学的対話が行われる場面です。いつもの如く、アナトーリーのヒステリックな笑いが彼の喉を鳴らす中(どんな笑い方やねん)、彼らの対話は厳密なロジックの階段を一歩一歩上るような議論ではなく、絶対的なものに一気に迫ろうとする「跳躍」のほうに流れていきます。決定的な手掛かりとなるのが、イズヴィツキーの採るアプローチ方法です。「一方のイズヴィツキーは、わけあってもっと以前から逆の道を探し求めていた。ヒエラルヒーの全階梯を通り過ぎて至高へと通じている世界の裏口を」。それから、彼の思考の否定神学に類似している点もその後に続きます。「彼は世界の様相を素描した。そこでは、否定主義を通じて、否定を通じて超越的なるものへ至ることができる」。勿論、厳密に言えばこれは否定神学とは異なるのですが(否定神学では、神はその定義不可能性を通じてしか表現し得ないという方法論的なフレームを提示するのですが、イズヴィツキーは、否定そのものに価値を見出そうとしている)。その後の会話は、徐々に永遠の智(ソフィア・ペレニアル)についてのものに移っていき、いよいよ最後に「語り得ぬもの」そのものに到達しようとした瞬間、リョーミンが思わずぞっとして「それには触れるな、だめだ、破滅する!」と叫び出します(幼少期からアナトーリーも苛まれてきた「物自体」が彼を捉えたのでしょうか)。結局、この夜には3人の議論がそれ以上進展することはなく、妙な熱気を持った究極の叡智の探求は一旦ひと休みとなります。それでも、この会話の最後に誰かが「ほら見ろ、これがウォッカを飲みながらのロシア的秘教だ!」と言い放ちます(発言者は謎とされていますが)。彼らのこの一連の知の探究は、高濃度アルコールを酌み交わしつつの、ロシア流のグノーシス的神秘主義の営みだったのです。
その後、アナトーリーらはグルベフなる人物が開いた謎の新興宗教「我教」に心を奪われ(元々彼らはこの宗教に小さからぬ関心を抱いてはいた)、結果としてアナトーリーらは、グノーシス主義的な二元論ではなく、この「我教」の教義による「至高の我こそが絶対的であり、神すらも「我」との関係なくばその価値を持たないという特殊な一元論(ないし独我論)」に傾倒し、半ば発作のような恍惚を感じながら狂信的な歓喜に酔いしれていきますが、これも結局はグノーシスと大差ない神秘主義の亜種にほかなりません。どうやら、作者マムレーエフがポスト・スターリン期のアンダーグラウンドな活動の中で、夜な夜なモスクワの片隅に集まるリベルタン達と自由に語り合い、試行錯誤を経て辿り着いた形而上的観念の結晶が、この至高我を絶対とするユニークな独我論であったようですね(チモフェイ・レシェトフによる解説参照)。
なお、この小説の大きなポイントの1つは、アナトーリーらモスクワの放浪インテリどもの知識人的神秘主義と、フョードル・ソンノフら素朴な田舎の庶民的蒙昧主義とが邂逅するところでしょう。それは、ただでさえ元々アブノーマルだったフョードルたちの家が、モスクワから来た変人どもが住み着くことでさらにカオティックになるというドッカリ胃に来る展開へと繋がっていくのですが(ついでに去勢派のミヘイまで入ってきて、いよいよ収拾がつかなくなる……)、結果として、フョードルたちの半ば家族であったペーチェニカの、形而上的狂気がついに自らの肉体を食すまでに至ったことで迎えた死をきっかけとして、狂った住人たちはこの家から次々に去っていきます。形而上的理由からとはいえ悪行を重ねてきたフョードルは最終的に当然の報いを受け(元々彼は、いかなる報いも恐れてはいなかったのですが)、アナトーリーたちは強烈な自己信仰の「我教」にどっぷりと浸かり、実質的にグノーシスとあまり変わらない神秘主義的思考に恍惚となりますが、アナトーリー1人は最後の最後で急激に目が醒め、結局以前のような懐疑ないし否定による思索の旅へと戻って行きます。
そしてまた歩き出す
以上のように、アナトーリーたちがヒステリックな哄笑をまといながら遍歴した、頓悟への渇望による思想曲線を私なりにざっとトレーシングしてみたのですが、まだまだ語り足りない部分は数多くあります。それらのいくつかはまた別の機会に譲らせていただくとして、本稿では、それらのうちから補足的に2点だけ触れさせていただきたいと思います。
1点目は、アナトーリーによればクラーワ(フョードルの妹)により端的に体現されているとされる「不条理」です。でも、クラーワって「比較的」人畜無害なのですがね。家事だってするし。
この小説自体、冒頭から全く救いようのない不条理の連続なのですが、そもそも、世界はなぜかように不条理に満ちているのかという問いは、現在においても明確な答えがないままです。昨今のウクライナやパレスチナの情勢を見るまでもなく、人類はその長い長い歴史を経てもなお愚かな戦争を捨て去ることができず、そこでは幼い子どもや弱い立場の人たちも理不尽なまでに命を奪われていきます。神は最善の世界を作ったのではないのでしょうか(ライプニッツに聞いてみましょうか)? なぜかくも世界は不条理であるのか?
パレスチナ出身の小説家/ジャーナリストであるガッサーン・カナファーニーの短編『悲しいオレンジの実る土地』では、イスラエルによる悲惨な「ナクバ」によりパレスチナ難民となり、異邦の路上に放り出された主人公の少年(作者の分身ともいえる存在)が「僕にとってもはや疑いようのないこと、それは僕らがパレスチナで知っていた神様もまた、パレスチナを出て行ってしまったということ、僕の知らないどこかで、神様も難民になってしまって、神様自身の問題さえ解決できずにいるのだということだった」というこの上なく悲しく、平和な社会に生きている私たちには決して到達し得ないような真理を悟るに至ります。平和な日々を望んで神を真っすぐに信仰してきた結果、悲惨な戦火が飛び交う地となってしまい、もはや神様とは一体何なんだろうと思ってしまうほど事態は深刻であるということです。あの啓蒙主義者ヴォルテールも、1755年のリスボン大地震による甚大な被害に衝撃を受けて以降、神に対し疑いの目を向けはじめましたね。災厄は、あらゆる存在者たちに無慈悲に襲い掛かり、そしてあらゆるものを奪っていきます。この小説に目を向けてみると、フョードルが理不尽に人々に襲いかかる様は、その無差別性ゆえにこそ、読者を震え上がらせることが分かるかと思います……。
それでも、神を信じたいという純粋な情念はとてもよく分かります。だからこそ、信仰には苦悩が付きまとい、『穴持たずども』では既存の守旧的な宗教に限界があることを放浪インテリどもは悟り、自己こそ全てという謎の新興宗教に走ってしまいました。作者マムレーエフは、やはりどんなに綺麗事を並べてみても、世の中の不条理を直視しなければならないのだという世の道理を、この小説の冒頭から続く悲惨な事件たちに託して語っているのではないでしょうか。
ちなみに、「神は万能の創造者なんだけども人間がア・プリオリに持つ「原罪」のせいで堕落してんだよ!」とするカトリック的世界観に対し、グノーシス主義思想では「そもそもこの世界は創造において失敗してんだよ!だから人間は自らの創造的営為においてその欠陥を補完する存在なんだ!」という世界観なので、世界の不条理に対してのスタンスも両者で全く異なります。かくしてグノーシス主義においては、神は世界の独裁的な統率者というわけでもなく、世界の歴史も全く予測不可能なものとして捉えられます。量子力学や複雑系が幅を利かすようになった現代物理学には、世界を確率でしか予測し得ない「サイコロを振る神」の姿こそマッチすると思うので、グノーシスが神に与えるポジションもあながち不当というわけではないのかもしれませんね。
2点目は、1点目ともリンクするのですが、この変態小説の主要な人物の中でほぼ唯一、まともな思考の持ち主と思われるアリョーシャです。
彼の名前、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の中の心優しき修道僧の末弟アリョーシャを明らかに意識していますよね? ちなみに、行く先々で恐怖をもたらすフョードルは、ドストエフスキーのファーストネームから取られている気もしますし、小説の節々でドストエフスキーの肖像画が意味もなく映り込んでくるのもどこか確信犯的です。不信仰者(あるいは我流の信仰に邁進する者)たちが描かれるときこそ活き活きとしてくるドストエフスキーの作品たちと決して無関係ではなさそうです。
さて、アリョーシャは、変態たちの振り撒くいかなる狂気にも惑わされることなく、旧来的なロシア正教の信念を最後まで守り切り、しまいには古代キリスト教に没頭してしまい、孤独な殻の中に閉じこもってしまいましたが、倫理観を真横からフックでぶん殴ってくる一連のドタバタストーリーを読み進める中で、一般的読者にとっての最後の頼みの綱であり、また、不条理に微力ながらも抗う最後の砦なのではないでしょうか。やっぱり私としては、アリョーシャに一定程度同意しながらページを捲っていくしかありませんでした(途中までは彼の父であるアンドレイ・ニキーチチがその役割を担っていたのですがね……)。実際、この狂乱小説において、アナトーリーら知識人的神秘主義とフョードルら庶民的蒙昧主義とによる超強力タッグに唯一立ち向かい得たのは、最終的にはアリョーシャ1人だけでした。世の中は概して不条理に包まれているのだけれども、フョードルも最後には因果広報と言うに相応しい結果となるわけだし、シンプルで素朴な祈りの力を信じたい──そんな思いを受け止める力がアリョーシャにはあったと思います。もっとも、最終的に外部との接触をやめてしまった彼は、確かに悲劇的ではありました。彼が普通の聖職者たちを「デカダン」といって遠ざけるまでに至らせてしまうことのないような、不条理の僅かでも少ない社会を願うばかりです。
マムレーエフは、この唯一敬虔な清き人物を、どのような役務を担わせることを意図して描いたのでしょうか。マルクスによる「宗教はアヘンである」のテーゼのもと、ロシア革命以降居場所を極端に狭くさせられた古き良きロシア正教ですが、しかしポスト・スターリニズム期の当時にあっては、革命前のような素朴なロシア正教の力が案外健在であったことを、私はチモフェイ・レシェトフによる解説で知って感嘆しましたが、マムレーエフがアリョーシャに与えた役割は、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャのそれであったような気がしてなりません。
嵐のようなドタバタ劇を経て、自らの思索も極端から極端への跳躍を繰り返した後、(先述のとおり)結局1周回って元の状態になったアナトーリーが、よろよろしながらドブを這い出て、重要な問いへの答えがなく、そもそも問いすら発することのできないという「隠れた世界」に向かって歩き出すという所で、この長編小説は幕を閉じます。これも、1周回って同じ所に戻ってきたというような無意味なプロセスだったわけでは決してなく、螺旋階段を上がるように彼なりのアウフヘーベンがなされたものと私は解釈しています。
数々の衝撃的なエピソードが話題をさらいがちなぶっ飛んだ書ですが、ソ連アンダーグラウンドシーンに実在したユジンスキー・サークル(プーチンへの影響が指摘されるアレクサンドル・ドゥーギンも通っていたそう)での自由で活発な語らいをもとに紡ぎ出され、いわばソ連時代の隠れた地下水脈の流れの中に秘められていた、知られざる非公式文化による前衛的思想たちの溢出こそ、この作品の紛れもないコアであるという思念を私は抱いています。そして、ソ連の成熟期であった1960年代においてすでに、ソ連崩壊後を予感させるような「社会主義どこ吹く風」のアンダーグラウンド・カルチャーが、ニューヨークよろしくドクドク脈打っていたという事実に、私は心躍るのでした。
ということで、本稿では、この小説を通して貫かれているロシア哲学の伝統芸「グノーシス主義」を補助線として、作品のポイントとなると思われる点について考察してみました。変人キャストたちの真横で難解な思想たちが次々にでんぐり返しするこの狂気的テーマパークのような作品を読解するに当たって、以上の小考が僅かでも皆様の参考になるのであれば、在野の一リベルタン気取りとして幸甚です。