ノートの勧め(その2)——創造的なノート
「ノートの勧め」の続きです。
軽い感じで書きはじめたのですが、ポール・ヴァレリーだのパスカル・キニャールだのの話をしだすと、にわかに文章が堅苦しくなってしまう。
そもそも、ポール・ヴァレリーって誰? と思う人もいるかもしれない。
娘には「夏目漱石みたいな人だよ」と超アバウトに説明したら、「あ、そうなんだ」という答え。
共通項は「国民作家」くらいしかないので、いかにもアバウト過ぎますが、くどくど説明しているとキリがない。関心がある人はウィキペディアを検索してみてください。この項目はじつに手際よく、ツボを押さえて書かれています。たぶん書いたのはヴァレリーをきっちり読み込んだ人(編集者か研究者?)で、この詩人・哲学者の人間像が限られた紙幅に生き生きと描き出されています。
ヴァレリーは、この早朝に書き続けたノートについて、自分の真の作品はこれしかないと言い切っている。活字となり、本となって出回っている文章はすべて注文に応じて書かれたもので、ときには字数や行数まで指定されていることもあったとも言っている。
でも、細かいことには立ち入らないことにします。
ヴァレリーは、このノートで何をしたか? 自由を確保したんだと私は考えています。夜明け前から起き出して、このノートを前に思索にふける。奥方と遅めの朝食——たぶんパンとカフェオレか何か——をとってから、アバス通信社に向かう。社長室に入り、何種類もの前日の新聞(フランス新聞は夕刊紙が主流で街角の売店で買い求める)やさまざまな情報誌から、必要なもの、重要なものを選んで、社長に読み聞かせる。それが彼の仕事だった。
かつての文学仲間が作品を発表していくなか、彼は黙ってこういった日常生活——といっても、午後はどうしていたのか、夜はどうしていたのか、そんなことはわかりません。たぶん、おおかたの会社勤めをしているパリジャンと同じような生活——を繰り返していた。
そして、彼の死後——一九四五年、第二次大戦の終結の年に彼はこの世を去り、第五共和制の初代大統領となるド・ゴールの呼びかけのもと国葬が催された——、この夜明け前のノートの存在が明らかになると、この「沈黙の二十年」がどれだけ豊穣な期間であったか、人々を驚かせることになったのである。
ヴァレリーの生涯と生活を支えたのは、この夜明け前の「カイエ」だった。
パスカル・キニャールという特異な作家——ひとつのジャンルには収まらない多様なスタイルの作品を書いているので——を支えたのも、夜明け前の「読書ノート」だった。
キニャールは、その読書ノートを私に見せてくれたことがある。ヴァレリーのようにそのときどきで異なる判型、異なる紙質のノートに書いていたのではなく、A5版くらいの、どちらかといえば小ぶりの、緑色のカバーのついたノートだった。
彼の背後の本棚にずらりと並んでいた。何年分のノートだったのか、恐れ多くて尋ねることもできなかった。
「これ、国立図書館に納められることになったんだよ」
さらりと言った。
「いや、ただの読書ノートだよ。ヴァレリーのようなのとは違う」
ただ絶句するばかりだった。
私もノートをつけていた。
A4版の大型の大学ノート。開いたまま、日付だけ書いて、あとは白紙の日もあった。
翻訳に疲れると、ファミレスが空きはじめる時間帯を狙って、自転車を漕ぐ。家族四人が座れるテーブル席につくと、何杯もおかわりできるコーヒーを注文し、何冊もの本をテーブルの上に置き、A4の大学ノートを開く。でも、すぐに本を読んだり、ノートに何か書き出したりするわけではない。大きな窓から外を見ているのである。車が通り、街路樹が揺れ、ベビーカーを押す若いお母さんがいる。
五分が過ぎ、十分が過ぎる。
持ってきた適当な本を開く。
読まずにまた外を見る。
革のペンケースからボールペンを取り出す。
でも、書かない。
自由と言うべきなのか、永遠と言うべきなのか、わからない。
そこに私がいると言うべきなのかどうかもわからない。
刻々と時はすぎ、気がつくと陽が大きく傾いている。
夕食までに残りのページを翻訳しなくてはと思い、そそくさと本とノートをバッグにしまい、清算して表に出る。
この空白の時間が、東京での私の生活を支えていたことだけは確かなようである。
*
補註:前回も今回も、ヘッダーに見開きにした「カイエ」のページのスキャンを掲げてあります。いったい何が書かれているの? と気になる人もいるでしょうが、これを翻訳するとなると研究者の仕事になってしまうので、一介の翻訳者の手には余ります。要は、ノートを開いて自由に書いていたということが目で見てわかればそれでオーケーということです。