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2023年4月の記事一覧
1.goes wrong life
人生には時折、ストンと『腑に落ちる』ということがある。
納得するということは本来『得度を納める』ということ。つまり『渡るを得る』、仏の教えに出会い彼岸(浄土・仏の国・悟りの世界)に『渡る』機会を『得られた』という意味で、悟りを求めて仏道の修行に入るこという。
スタートラインに立つ、チャンスを掴むということは、そこからしか物事が始まらない、という意味において、とても重要である。仏教や修行などと
2.over reward syndrome
なぜ?こうも人生がうまくいかないのか?
…ある。楽しいと感じることはある。やりたいことや欲しいと思うものもある。望みや願いや欲ならあるが、充実感や肯定感のようなもの、それが何かよくわからないが、
…ない。ワクワクしない、心踊らない、そもそも、血も湧かない肉も躍らない、ピクリくらい動く?いや、そんなの続かない。これが虚無というものか?この空しさの正体が知りたくて悶々と考察し、ひとつの仮説に辿り
3.fundamental problem
自分へのご褒美。自分で自分を褒める。自分を肯定し鼓舞して、更なる成長や飛躍を目指す。ポジティブで素晴らしいじゃないか…と、思う。
お祝いだってそう。楽しいことは多いにこしたことはない、自分のことだろうが他人のことだろうが、めでたい時には祝わなきゃ…って、思う。
それの何がいけないのか?
確かに、嫌なことや辛いことに立ち向かう努力を学ぶ方策として、我々が子供の時から施されてきたご褒美教育は秀
4.cause and effect
時と場、そして人。どのような条件下であっても通じることでなければ、真理とは呼べない。これは至極当然の理。
その意味からも、仏教に説かれる因果の規律は絶対的真理と呼べる。異を唱えられるものならやってみるとよい、必ず恥をかける。
物事の結果には全て原因がある。そして原因には業縁が必要となる。蒔かぬ種は生えぬ。そして種が実るには土も水も光も要る、世話や手間だってかかる。
十方三世を貫く
それが
5.true good seed
褒美にせよ祝いにせよ、自らに差し向けた報酬には欲がある。どんなに体裁を整えても、欲を貪る醜さを誤魔化して、自分にまで言い訳をして、騙くらかしているに過ぎない。
因果の規律に沿って考えれば、過剰な欲を満たす行為、貪欲は悪行。悪い種を撒き、それを貪り育てると、どうなるかは明白。
だって、頑張ったんだから良いじゃないか。めでたいのだから当然だろう。そんなに褒美や祝いが悪いことなのか?という素直な気
6.theory of relativity
因果に従い、善行を積む。善い種を蒔き、善く育てる。といっても、物事の善し悪しとは一体なんなのか?
良かれと思ってやっていたご褒美も、欲を貪るほどの行為なら悪行。この世界では、私が満たされるとするならば、それは誰かから奪い取るということ。私が喜ぶ時、誰かを悲しませ、私が怒る時、誰かを怯えさせ、私が哀しむ時、誰かが有頂天となり、私が楽しむ時、誰かを暗い気持ちにしているのかもしれない。
この世
7.good or bad
私たちにとっての善し悪しとは、行動理念であり、基準となる物差しなのだが、その特徴として、ひとつには『よく解らない』ということ。ふたつには『表裏一体』ということ。これを忘れてはならない。
何故なら、ヒトは自分の正義を貫く時、反対側にある正義を悪とみなす生き物。使い方を誤ると危険な代物がこの善し悪しという概念の正体だ。
『よく解らない』とは、どの立ち位置から物事を見るかによって変化があるというこ
8. no truth Paradox
前提として、うまくいかない。という感覚があるとしたら、それは何かの悪行・悪業が機縁となって作用している証拠。これは真理、因果の規律を逆説的に表現しているだけだが、となると、善い結果が実った時には、善い種が蒔かれ、善い育て方ができた。つまり善行ができたということになるのだから、善い結果そのものが、私たちが真の善行を把握するひとつの判断材料となる。
しかし、ここで注意せねばならないのが、自分にとっ
9.how to find things
どこを探せば求められるのか?
遥か昔、シルクロードを歩き天竺に教えを求めた僧もいた。
常なる真理はどうしたら得られるのか。事由が沢山あり過ぎるので、そこは適宜述べていくとして、先ずは是非とも
仏教を聞いて欲しい
と願うばかりである。あくまで学ぶ気もなく、他人事のように扱わない限りではあるが、少し噛って学ぶだけでも、感受性の強い者ならば、そこに説かれていることが、荒唐無稽なファンタジーでは