たいじん

【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等憂民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、スッキリスト、メランコリニスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

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【非僧非俗の空想坊主】 空想家、宗教家、自由業、世捨人、逃げ組、下等憂民、厨煮病、奇人、変人、元クライマー、自転車愛好家、掃除好き、スッキリスト、メランコリニスト、チーパー、A(C)、負けず嫌いの平和主義、孤独を好む寂しん坊、破戒僧、乞食僧、愛煙家、酒呑み、 …的なヒト科のなにか

マガジン

  • 続々 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • 続 しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • しあわせます。

    私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96

  • うまくいかない

    人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。

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いきづらさらぼ

人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、

    • 末寺の末事 320

       僕の本音はさておき、皆が重要とするのは、心地好いタテマエと韓流アイドルの顔面の如く整えられた体裁。  葬儀・法事は勝手に簡素化されながらやる。けど、こっちも都合良くテコ入れする。そこに信心はないのだから遠慮はしない。無論、これまで通りにしたいという声には、全身全霊応える。要するに臨機応変に対応するという漠然とした構え。  周囲と揃えないと安心できなかった地域性も、人間関係の希薄化が皮肉にも功を奏して、隣家と葬式・法事の内容が異なったって、特に気にとめない。経済格差も素直

      • 末寺の末事 319

         信仰なきイベント、葬儀・法事については、放っておいても勝手に廃れていってる。  そこに合理性がないからだ。『合理』とは、効率の良し悪しではない。理に適うか、真理に基づくかが問われる。当然ながら、宗教行事であるなら、それは信仰に裏打ちされた真理だ。  生活・文化・風習に寄り添ったイベントは、面倒で嫌なことから排除される倣い。廃れる。  努力して削ったり、リニューアルするまでもないが、体裁だけ整えておきさえすれば、誰も文句はないだろう。  した。やった。始末した。という事実

        • 末寺の末事 318

           全くもって無意味極まりない。  信心のないセレモニーは宗教行事ではなく、生活・文化・風習…『のようなもの』『の気がするようなもの』『かもしれないもの』というくらいフニャフニャだ。  合理性を無視している『ようなもの』に束縛されて、嫌々やるよーなことではない。という意味に於いて、無意味と思っている。  葬儀にしても、法事にしても、本当に大切な故人を偲ぶ時、社会や世間やどーでもいい関係とは極力離れて静かに過ごしたい。僕なんかはそー思っている。もちろん、生活・文化・風習も無視

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        いきづらさらぼ

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        記事

          末寺の末事 317

           15・16・17の三日間、16日を軸にして調整して一席でも、いや、その準備や片付けでも、ほんのちょっぴり覗くだけでもいい。毎月一回は願い寺に行く。本当は聴聞の機会を確保するべきところだが、その下地を作る為だと思ってもらってもいい。自分自身の信仰の在り処を、認識するってことでもある。  月に1回は願い寺に…、ほぼツキイチ参り…、ほぼイチ参り。ハードルは低め。  それよりもむしろ葬式・法事。ご門徒さんにしてみれば、気になるのは、そっち。  先ず僕の本音だが、葬式・法事は要ら

          末寺の末事 317

          末寺の末事 316

           ま、『お斎』については、たぶん、誰もやりたがらないから、みんなの選択肢が、やらないならそれはそれで尊重するけど、何かしら形を変えてでも、有志の者が気兼ねなく集える時間は遺すべきなのではないだろうか?と、住職は思っている。  掃除と準備からはじめて、その晩に一座、翌朝と昼で二座、そして夕刻からのお斎(打ち上げみたいなもの)で、翌日後始末のワンセット。  これを毎月15・16・17日の日程で定例行事として月別の各種法要を盛り込む。  三座も設定するのは、働いていて夜しか参れな

          末寺の末事 316

          末寺の末事 315

           毎月15日を寺院清掃の日にして、その夜19時から初夜法要、翌日16日の朝10時から日中法要で昼の14時から逮夜法要。で各1時間半程度の三座を確保。そして、16日の夕刻から『お斎』なんかができたらいいなぁ。  『お斎』というのは、法座・法要後の食事会みたいなもので、その昔、門徒さんが当番制の施主となって、僧侶やお参りされた方に食事やお酒なんかを振る舞ってもてなす布施行とされていたが、寺でも飲食の絡む行事は、コロナを契機にすっかりできなくなった。が、家父長制の名残の当番制が破

          末寺の末事 315

          いつからこんな時代になったのか、 なんでこんな時代になっちまったのか、 世界が悪い、政治が悪い、 経済が悪い、戦争が悪い、 環境が悪い、人間が悪い、 悪い悪い…と、嘆く先達よ、 解らないなら答えよう、 貴方の生きた時代から始まり、 貴方の無自覚が生んだのが、 こんな時代の正体だ。

          いつからこんな時代になったのか、 なんでこんな時代になっちまったのか、 世界が悪い、政治が悪い、 経済が悪い、戦争が悪い、 環境が悪い、人間が悪い、 悪い悪い…と、嘆く先達よ、 解らないなら答えよう、 貴方の生きた時代から始まり、 貴方の無自覚が生んだのが、 こんな時代の正体だ。

          末寺の末事 314

           何日も、何座も、長時間、丁寧に、大切に、営まれてきた御法座を、ギュギュッと圧縮して月一法座に一点集中する。  年間で考えると、4月は花まつり、5月は宗祖降誕会、6月は月例法座だけ、7月は境内一斉清掃、8月は盂蘭盆会・追悼法要、9月は秋季彼岸会・永代経法要、10月は仏教会托鉢、11月は報恩講、12月は除夜会、1月は修正会と御正忌法要、2月は月例法座だけ、3月は春季彼岸会と寺役員慰労会…と、こんなもんだな。  月例法座しかないのは2月・6月だけで、あとは何かしらの行事が1日

          末寺の末事 314

          末寺の末事 313

           が反面、『毎日仏壇、月一末寺、年一本山』というスローガンは侮れないとも思う。無論、最低限度の信仰スタイルをキープするという、実にお粗末な状態ではあることは否めないが、現実から目を背けるよりは余程マシだと思う。  このスローガンをベースに、意味も考えずにやり過ぎている物事を極限まで削ってシンプルにしたいと思う。勿論、経費も削る。  次は、その削り方だ。頻度、時間、何よりも内容。どこをどー削るか。末寺としては、月一の一点に注力したい。半分手抜きの詭弁だが、効率性も大事な要素

          末寺の末事 313

          末寺の末事 312

           ザッと門徒さんの現状を把握したところで、具体的にどーしていくのか考えてみる。  これまで、前任者の足跡を準えてきただけで、それなりに自分のできる形にアレンジしたりはしたものの、根本的には『持続』『継続』が背景にあった。が、それらが不可能であるという条件が整い過ぎているからには、これからもこのままという選択肢はない。やはり『末事の後始末』だ。どこにどう着地していくのか、見据えて計画せねばなるまい。…と住職としては思っている。  昔から、『月に1度は願い寺へ、年に1度はご本

          末寺の末事 312

          末寺の末事 311

           45分の16って考えると、完敗組は案外少数派に見えなくもない。これが妙な期待を持たせてしまうマズさでもあるな。次に控える負け組もカウントしてみると19軒。実家を離れて生計を立てているご子息・ご息女があるケース。この内の何人が帰ってくるのか?  もしも、これらのグレーゾーン含めて繋がりが途絶えたなら、45分の35消滅。残りは10軒。  問題はまだある。その残り10軒の内、この先暫くはグレーに染まらない『家庭』があって、『家族』が暮らす『家』は、現在何軒なのか?  ここは

          末寺の末事 311

          末寺の末事 310

           約45戸ある門徒さんの家庭で、持続可能可能性を秘めている家を除外する。たとえ県外でもいい、ご子息なりご息女なり、次代が続く可能性が数ミリでも残っているところは、まー期待できるワケもないけど、あえて除外する。  だってそーでしょ。こんな消滅予定と呼ばれる所に住んでる負け家族、見限られる可能性の方が随分と高い。当たり前でしょ。情?おーいおい、だからバラバラだって言ってんじゃん。んなの期待できないってば。でも、あえて除外しとく。  問題は負け地域の負け集落の負け家庭の負け家族

          末寺の末事 310

          末寺の末事 309

           人間関係の希薄化を軸に、これからの具体的活動を模索してみよーと思ったけど、また愚痴っただけだった。それに、問題は希薄化の段階どころじゃなくて、過疎→限界→消滅と確実に日々成長著しくて、関係は一先ず置いておくとしても、人間はどんどん減る。バラバラ。  心だけバラバラなんて、都合よくはいかないワケで、心が離れたら具体的に肉体も、…要は物理的にスペースも別つ形が自然。だから当然どんどん減る。  収支計画の段階で触れておくべき案件だったけど、今気が付いたどんぶり勘定奉行。デッド

          末寺の末事 309

          末寺の末事 308

           認め難い真実、信じ難い真理でしょうなぁ、バラバラ社会にとって、『倶会一処』や『悪人正機』なんてのは、建前には成り得ても、本音とは言えない。旧態依然とした解釈では、成立しない。  何をしても同じなんだから。共産主義のパラドックスみたいになっちゃう。頑張ったって、頑張らなくたって、どーせ同じなら、頑張ったって無駄じゃん。って理屈になる。そーいった無秩序に対して絶対的封建的権力者である神仏が現れると、宗教が阿片と並列しだす。  共同体が主義化するまでなら、集まる場所の有り無しや集

          末寺の末事 308

          末寺の末事 307

           親鸞聖人は、嬉しい時も悲しい時も、お念仏に生きる者は、決してひとりではない。というメッセージを遺されている。  懐かしい人、親しかった人、大切な人、愛する人、ともにまた会う場所『倶会一処』があるとは、大いなる安心に包まれる尊い教えだ。  が、嫌なヤツ、変なヤツ、合わないヤツ、気にくわないヤツ、会いたくないヤツ、とも会うことになる。ま、とは言っても、これは浄土に往って仏になってからのお話で、仏心にそんな野暮な感情はないのでしょうから心配無用かもしれませんが、良いところだけフ

          末寺の末事 307