たいじん
私なりの『しあわせ』について、更に綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96
私なりの『しあわせ』について、重ねて綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96
私なりの『しあわせ』について、綴ってみました。 【幸福論】 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E8%AB%96
人生が『うまくいかない』ことについて、自分なりの気づきや思うところを纏めてみました。
人生の自由研究として『生きづらさ』をテーマに、日々想うところを散文的に綴っていくだけの、雑記のような書き物やなんやかんやにしてみようと思い、 それなりに書き溜まったなら、それとなく整理して分類するつもりなので、結果的に、いつか誰かの『生きづらさ』が、少しでもフッと楽になる為に、適当な読み物やなんやかんやなんかに、なってしまえば本望オーライ…、 と、いうのは詭弁で、要するに、自分用の思考整理と覚え書き的な意味の方が多分にあって、自己満足の萌えカスの掃き溜めやなんやかんやに、
人間関係の希薄化を軸に、これからの具体的活動を模索してみよーと思ったけど、また愚痴っただけだった。それに、問題は希薄化の段階どころじゃなくて、過疎→限界→消滅と確実に日々成長著しくて、関係は一先ず置いておくとしても、人間はどんどん減る。バラバラ。 心だけバラバラなんて、都合よくはいかないワケで、心が離れたら具体的に肉体も、…要は物理的にスペースも別つ形が自然。だから当然どんどん減る。 収支計画の段階で触れておくべき案件だったけど、今気が付いたどんぶり勘定奉行。デッド
認め難い真実、信じ難い真理でしょうなぁ、バラバラ社会にとって、『倶会一処』や『悪人正機』なんてのは、建前には成り得ても、本音とは言えない。旧態依然とした解釈では、成立しない。 何をしても同じなんだから。共産主義のパラドックスみたいになっちゃう。頑張ったって、頑張らなくたって、どーせ同じなら、頑張ったって無駄じゃん。って理屈になる。そーいった無秩序に対して絶対的封建的権力者である神仏が現れると、宗教が阿片と並列しだす。 共同体が主義化するまでなら、集まる場所の有り無しや集
親鸞聖人は、嬉しい時も悲しい時も、お念仏に生きる者は、決してひとりではない。というメッセージを遺されている。 懐かしい人、親しかった人、大切な人、愛する人、ともにまた会う場所『倶会一処』があるとは、大いなる安心に包まれる尊い教えだ。 が、嫌なヤツ、変なヤツ、合わないヤツ、気にくわないヤツ、会いたくないヤツ、とも会うことになる。ま、とは言っても、これは浄土に往って仏になってからのお話で、仏心にそんな野暮な感情はないのでしょうから心配無用かもしれませんが、良いところだけフ
僕はどーする?どーしたい? 本音を言えば、どーでもいい。放っておいてくれないか、何にもしたくはない、ってとこ。でも、自らに由ってそんな自由はない。 泣き言や戯れ言は気楽で、酔いしれても心地好い。問題は具体的にどーすんのかだ。 が、もうひとつ。 『倶会一処』という言葉がある。仏説阿弥陀経に由来する言葉で、人が亡くなった後、浄土で仏となって再び会う『ともにひとつの場所で会う』ことを顕している。浄土真宗を信仰している者にとっては、そのネットワークの深さ、絆の強さを示す言
地域、隣近所、友人知人、親戚家族、夫婦、親子、恋人、みんながバラバラなのは、優しい選択肢を選んだ結末。もう戻せないよ。いつも僕はバカで手遅れだ。 明るい未来を、夢や希望を、信じられる人はそれでいい。そうして精一杯生きる方が素敵。 そんな素敵なものより、バカを信じるバカはいまい。だからせめて、僕はそんな素敵な人の邪魔はすまい。バカだってバカはバカなりに、この禍々しくもバカバカしい現実と、向き合わないワケにもいかないのだから。 たとえひとりひとりの力は小さくとも、それ
誰の箴言なんだろう。どーしようもない問題に直面した時、これほどパワーのある言葉が、他にあるだろうか。諦め、絶望的諦めの境地。 バカには二種類あって、一つはどーしようもないバカと、もう一つはどーしようもないバカだと知ってるバカだ。同じバカなら知らない方が幸せなことが多い。知らずに踊れたら幸せだろう。知ってて踊るほど恥ずかしいことはないのだから。…なんのこっちゃ。 バカばっか。バカには止めようがないんだ、このサイクル。答えなんかは超簡単で、皆が皆、優しいお人好しになれば
ド定番、少子高齢化・人口減少からのぉ日本沈没。終了、オワター。という終末に至る病の病巣は、既にあらゆる部位に転移し増殖して、素人目にもステージ4に見えてしまう。 夢がない、希望がないのも無理はない。現代の子供たちに将来についてアンケートをとると、「はやく死にたい」といった類いの回答が多数あるという話も聞く。 前述した通り、問題は多岐に渡り、既に手の施し様がない状態であるとして、延命治療中の生命維持装置のスイッチを切るのは誰だ?子供たちが先に逝ってしまうかもしれない。
否が応でもニュージェネレーションを感じてしまう。単純に違和感というような、チープな言葉で表現したくもないけど、自分の頃と比較している自分に気付かないワケにもいかない。 これからの未来を担う子供たちを見て、徐々に消え失せていく人間の部分を、為す術もなくただ指を咥えて見つめて往くしかないのか。 問題は単体ではなく複雑に絡み合っていて、もはや責任者が出てきたところで、袋叩きにはできても解決はしないだろう。誰が悪いのでもなく、人間とはさういう悲しゐ生き物なのだ。 戦争、
変化変容に対して、抗うつもりはない。増してや維持したり、剰さえ改善しようなどという戯れ言を吐く気もない。 都合よくコントロールしたいのですよ、時代の流転を。 おー怖っ。何か違うね、らしくない。流れに乗せたいんですわ。末寺の末事を、関わる人の全てを。僕なんかが烏滸がましいと思ってますよ、誰かが代わってくれるのなら喜びますよ、ま、いませんけどね、そんな人。 無理なもんは無理。でも、無理とも言わず、言えず、てか、言おうともせずに、済し崩しに滅んでいくだけ。これが現実的
具体的な活動内容にメスを入れる前に、少し後悔し始めている。もーこれで300回目。少なくとも最低1年間は毎日400字書き続けてみよーと思って始めたから、いちおー残りは65回…、着地地点が見えないww計画性が無さ過ぎた、考えが浅過ぎた、若くも無いのに勢いだけだった。まー僕の人生なんて大半それw行けるとこまで行くか、生けるとこまで逝くか、往くか罰か。 世間が持続可能なSDGsを宣う時には、往々にして、無駄の排除や経費の削減らを盾として、節約、縮小、併用、兼用、吸収、合併、延期
『答え』さえあれば、経済なんて些末な問題だし、できることをできるよーにやってれば、それはそれでどーにでもなってゆくこと。 こんなだからドンブリ勘定奉行にお任せあれ~って感じの話になっちゃったけど、ここまでを簡単に整理すると、寺族・門徒共々に、消滅予定過疎地域で暮らす者は、若年層から確実に減る。やがて0。仮に残っても戦力外。もしもマンパワー的増量が見込めるとすれば、それは世界や国レベルの規模で危機的状況に陥って、食糧難になるとかクラスの予見不可能な事態に見舞われた時のヤケク
The optimist sees doughnut the pessimist sees the hole. I get hungry just looking at it. 誘惑を取り除く唯一の方法は それに屈してしまうことだ が それに屈する者は 新たな誘惑にも溺れる
年間にしてみて、約30~40万程度の予算が、自分の信仰に宛がえるか?そしてそれを高いとするのか安いとするのか、代わりに答えることはできない。 悲しいことだけど、自分の生活の諸々と比較してみたらいい。遊興費、酒・タバコ・博奕・女…無駄使い全般、身に余る贅沢な暮らしぶりにかかる、しょーもない出費と、自分の生き方の中心となる部分にかける費用とを、比較してみたら、それなりに自分の『答え』ってヤツが見えそーなもの。 嗚呼、賤しいし厭らしい。宗教に経済の話を持ち込むとこーなるこ
…で、本気で働く、本職を持つ、兼業坊主。生業だった坊主がバイトみたいになっていく。 まー、まー、まー、それはさておき、これはこの悲しい状況を改善させて、儲けを増やそうって話じゃないワケですからして、あくまでも後始末を念頭に置いて、先を見据えるのです。 では、寺院側、僧侶側からの視点ではなく、門徒さんの視点から、信仰にかかる費用を考えてみると、固定費となる祠堂会計の15,000円は月額1,250円のサブスクみたいなもんだし、定期的なところで年忌法事がコレにプラスでしょ
平均年収200万円が安いか高いか、そんなのは些末なこと、どーでもいい仮の話。だったとしたらって話。 あのね、これ全部お坊さんの財布にスッポリ収まって、好き勝手に使えるんなら坊主丸儲けって言われちゃうのも納得する。けど、当然、寺院運営にも支出はあるよ。代表的なところで本山への見ヶ〆料・上納金、年間複数回営まれる各種法要・法座の運営費、その他当たり前だが維持費、管理費、光熱費、修繕費…etc.末寺の将来の為の備蓄も考慮すると使い切るワケにはいかないし、結局、住職個人に委ねら