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福田恆存を読む

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『福田恆存全集』全八巻(文藝春秋社)を熟読して、私注を記録していきます。
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#精神

『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

 この論文は昭和二十四年に発表された。

このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。

他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精

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【閑話】福田恆存が考えてきた問い

【閑話】福田恆存が考えてきた問い

 何を疑問と感じるかでその人がどういう人間かが分かる、と言ったら言い過ぎだろうか。とにかく、発する問いにはその人の本質が現れているように思う。答えは粉飾できる。だが問いには、精神の姿態がそのままの形で現れているように思うのである。

・はたして理解は美徳であるか(『理解といふこと』)
・散文を書くとはどういう営みか(『批評家と作家との乖離について』)
・自己を描くとはどういうことか(『私小説のため

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『急進的文学論の位置づけ』「屈服」こそはまさにはげしい闘争の逆説

『急進的文学論の位置づけ』「屈服」こそはまさにはげしい闘争の逆説

 この論文は昭和二十三年に発表された。福田は、中野重治の鷗外観に対して疑問を呈する。

中野重治は、「古いものに対する鷗外の屈服」を指摘する。彼は「徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になつて再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため」に奮闘した鷗外を批判する。そして「日本の民主革命のため、日本の文化革命のためには、鷗外を、古い支配勢力の思想的芸術的選手として認め」、また

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『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

 『小説の運命 Ⅱ』は昭和二十三年に発表された。まず冒頭の引用から始めたい。

明治以来、近代日本の作家たちがそれぞれの方法でもって一途に探求してきたのもこの「精神が明確にみづからの存在を確証しうる様式」であったといえよう。

二葉亭四迷をはじめ、近代日本文学の発想と系譜は、大方、十九世紀ヨーロッパ文学の文学概念にその様式の模範を求めてきた。

しかしその後に誕生した日本的私小説という文学形式はつ

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『荷物疎開』物の実感を支えとする精神

『荷物疎開』物の実感を支えとする精神

  『荷物疎開』は昭和二十年(一九四五年)四月に発表された。終戦のおよそ四ヶ月前である。戦時下のなかで、福田は、物と自分の精神との関係についてある発見をする。

戦争という異常な現実は、福田の頭の中にある観念が形象化していくための時間的有余を与えてはくれない。戦争の激化という逼迫した事態は、しだいに福田を焦燥へと向かわせていく。

東京への空襲は激しさを増す。こうして福田は、今日にも明日にも焼け落

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『私小説のために』②新しく美を構想する力

『私小説のために』②新しく美を構想する力

 『私小説のために』の後半部分で福田は話を、西欧の私小説から日本の私小説に転じる。

そして、特殊児童の絵や民芸と、芸術とを区別すべきことを説く。

前回にも書いたが福田にとって、生活とはあくまで生活である。芸術とは、生活のうちにありながらもそれを超えんとする意思である。両者はつながっているが、間には境界線がある。

一般に古代における民衆にとって、芸術とは生活の方法の一つでしかなかった。たとえば

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『私小説のために』①生活のうちにあって埋没しない精神

『私小説のために』①生活のうちにあって埋没しない精神

 すぐれた論はすぐれた問いから生まれる。福田は『理解といふこと』で、理解は本当に美徳か否かを問い、『批評家と作家との乖離について』で、散文とは何かを問うた。では、福田は『私小説のために』でなにを問うか。

つまり、絵画、文学、方法は違えども、自分を描くとは、人間を描くとはいったいどういうことかを福田は問うている。そしてまずある芸術家に我々の注意を促す。

つづけて、福田はゲーテに目を向ける。

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『批評家と作家との乖離について』散文・この不安なるもの

『批評家と作家との乖離について』散文・この不安なるもの

 『批評家と作家との乖離について』(福田恆存全集第一巻収録)は、端的に言えば、福田恆存の作家・批評家としての態度表明として読むことができる。福田は、この論文で、「精神が精神とさしむかひに対決しえぬ現代の文壇的風潮に対して、日ごろいだいてゐる不満」を述べた。

散文というものは切ないものだ。絵画や彫刻に代表される造形美術とは異なる。散文はどうしても、作家の精神と切り離しては存在し得ない。その理由は、

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