Tada.
現在読んでいる書籍の覚書きです。
撮りためた写真たち。日常の風景の断片。
おすすめの本、映画、音楽、芸術などを紹介していきます。
2000年から2001年にかけて、渋谷のコンサートホールでバイトをしていた頃のことを書き綴っています。
2009年から2010年にかけて、パリ大学に留学していた頃の記憶を書いています。
哲学や文学、映画、アートなどについて徒然なるままに書き綴っています。運営者について。学生時代は20世紀フランスの演劇家、アントナン・アルトーを専門とし、東京の大学の修士課程を修了後、パリ大学の大学院に一年間留学しました。帰国後は教育系の仕事に従事。 もともと某大学の理工学部に通っていましたが、大江健三郎の『新しい文学のために』を読んだことをきっかけに、本格的に文学を志したいと思い大学を中退。一年間のフリーター生活を経て、別の大学の教養学部に入学。その後、フランス文学の研究の
エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』を読み始める。本のタイトルはシュペングラーの『西洋の没落』をもじっているのだろうか。『西洋の没落』のフランス語のタイトルが「Le déclin de l'occident」。『西洋の敗北』の原題が「La défait de l'occident」なので、語感は近い。 フランス語の原書は今年の一月にガリマールから出版されている。今月、ようやく日本語版が出版された。フランスの歴史人口学者にして家族人類学者であるトッドによる、ロシアとウクライナ
中沢新一の『レンマ学』を引き続き、ちびりちびりと読んでいる。ロゴスとレンマという二つの知のあり方を対比しつつ、様々な学問分野を縦横無尽に論じまくっているのが面白い。 物事を線形的に展開してくロゴスとは対照的に、レンマとは物事のありようを全体として一気に把握する知のあり方。そしてレンマを最も洗練した形で提示しているのが、大乗仏教の華厳経。華厳経においては、人間の持つ本質的な知性のあり方はレンマ的なものである。この純粋レンマ的知性を「如来蔵」と呼ぶ。ところが脳を中心とする神経系
中沢新一の『レンマ学』をパラパラと読み始める。新宿の紀伊國屋で本を物色していた時に、平積みされていたこの本が目に飛び込んできて思わず手に取った。「レンマ」という言葉自体は、以前、WEEKLY OCHIAIで落合陽一と東洋大学教授の清水高志がテトラレンマについてやたらと盛り上がっていた、という印象から頭に残っていた。思わず購入。 レンマとは、古代ギリシアにおいて、線形上に物事を思考していくロゴスの対極に位置する知のあり方で、語源的には物事を丸ごと把握する直感的な認識を意味する
完全に風邪をひいた。先週の水曜日から喉が痛くて、どんどん悪化していき、それでも仕事で声を出し続けて、ますます悪化した。今日、病院に行って抗生物質をもらったので、改善することを願う。それでも今日も仕事。職場の近くのエクセルシオールにて。 病気で倒れている時に読むと落ち着くのが、色川武大の『うらおもて人生録』。人生、常に勝ち続けることだけがすべてではない。戦略的に負けをとりにいく、ということも老練の人生論としては必要なんだ、というあたりが、起き上がることすらできないぐったりとし
今から十年くらい前のことだったと思う。仕事でニューヨークのトランプタワーの一室を借りて、研修をしたことがある。部屋に入るとトランプウォーターというミネラルウォーターが置いてあり、それが妙に記憶に残っているのだが、第47代アメリカ大統領にトランプ氏が選出された。日本ではほとんど報道されない、親トランプ系のメディアを見てみようと、Fox Newsにアクセスしてみた。イーロン・マスクの母親がテレビ番組のゲストに出演し、「ハリスはきちんとした文章を作ることができないし、女性の恥だ」と
細かい内容は忘れてしまったが、そこに漂う空気感だけは覚えている、という小説がある。イタリア人の作家、アントニオ・タブッキがポルトガル語で書いた小説『レクイエム』も、そんな小説のひとつだ。 フランス語の参考書で有名な白水社が出している白水Uブックスの、「海外小説の誘惑」シリーズの一冊として出版された本書は、現実と幻想の境目がゆらめく南欧独特の白昼夢を呼び起こしてくれる。 七月の昼下がり、一人の男がリスボンをさまよう。彼はすでにこの世にいない人々との邂逅をくり返す。たしか、そ
結局、マルクスの『資本論』を読んでいて感じる違和感とは、彼が提唱する労働価値説に起因するように思われる。労働者は労働力を再生産するための賃金しかもらえない、しかし実際にはその賃金の分を超えて労働することを強いられる、その差分が剰余価値として資本家に搾取される、というこのロジック。確かにほとんどの労働が単純な作業の連続であり、また資本家が労働者をもはや人間として見ることなく、骨の髄までその労働力を搾り取ってやろうという魂胆に満ちていた時代には有効な理論だったのかもしれない。しか
マルクスの『資本論』を大変面白く読んでいる。ただ、このまま突っ走ってしまうと、自分を資本から搾取されている労働者として規定してしまいそうで、若干の危機感を感じる。自分自身を社会の被害者と思い込むほど惨めなことはないので、修正を図ることにする。 学生時代、フランスに留学していた頃、仕事の文句ばかりを言いやたらとストライキをしまくる労働者たちを見て、結局それであなたは幸せなの?と疑問に思ったことがある。自分の置かれた現状を批判的に分析し、社会の現状を変えるべく行動を起こすことは
なぜだかいつも、ベッドの枕元に置いてある本がある。それがこの本、『色川武大・阿佐田哲也 ベスト・エッセイ』。純文学作家であると同時に、阿佐田哲也の異名で『麻雀放浪記』などを執筆するプロの雀士、色川武大のエッセイを集めた一冊。 色川武大を知ったのは、小学生だったか、中高生だったか、いずれにせよ学生時代に読んだ国語の教科書の中でだったと思う。突如として眠りに落ちてしまうナルコレプシーという病にかかっている異色の作家、というくくりで記憶に残っていた。 その著作をみずから手にした
マルクスの『資本論』を読んでいる。最高に面白い。『資本論』と言えば、この上なく難しい本、というイメージが強かったが、実際にチャレンジしてみると、現代を生きるビジネスパーソンにビシビシと刺さる言葉のオンパレードで、かなりエキサイティングな読書を楽しむことができる。ちくま学芸文庫版で読んでいるのですが、翻訳もすばらしく読みやすい。 とは言え、予備知識もなくいきなり『資本論』に挑むのはちょっと無謀かもしれない。私自身、事前に入門書などでその概要をつかんでいたからこそ、なんとなくで