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中沢新一『レンマ学』覚書き part 1

中沢新一の『レンマ学』をパラパラと読み始める。新宿の紀伊國屋で本を物色していた時に、平積みされていたこの本が目に飛び込んできて思わず手に取った。「レンマ」という言葉自体は、以前、WEEKLY OCHIAIで落合陽一と東洋大学教授の清水高志がテトラレンマについてやたらと盛り上がっていた、という印象から頭に残っていた。思わず購入。

レンマとは、古代ギリシアにおいて、線形上に物事を思考していくロゴスの対極に位置する知のあり方で、語源的には物事を丸ごと把握する直感的な認識を意味する。むかし、確か村上春樹の短編か何かだったと思うが、普通は物事をA、B、C、だからDと理解するが、天才はA、B、C、そしてZということが分かる、というようなセリフがあった気がする。これなんかは、レンマ的な知に属するのかもしれない。時系列に沿わない形での知的な認識のあり方、というものがこれから解説されていくのだろう。

レンマ的な知のあり方を究極にまで洗練させたのが大乗仏教の華厳経、ということで、本書では特に華厳経について掘り下げられていく。華厳経のキータームが縁起(えんぎ)。縁起とは、物事は独立して存在しているのではなく、互いに依存し、関係づけられながら存在しているということ。この考え方を突き詰めると、世界から切り離された単独の物事それ自体は存在しない、すなわち空である、ということになる。

と、この辺りまで読み、これってユングのシンクロニシティとも通じるよな、と思っていたら、どうやらやはり後半でユングが出てくるようだ。巻末の英語で書かれたアブストラクトを読んでみたら、そんな感じだった。

ユングのシンクロニシティにインスパイアされて書かれたビジネス書が、ジョセフ・ジャウォースキーが書いた『シンクロニシティ』。『U理論』を書いたピーター・センゲを中心とするMIT一派の一連のビジネス書のひとつとして位置付けられるのだと思うが、東洋的な思想をビジネスに導入しようとする試みは、レンマ的な知性のあり方とも共鳴するように思う。

たしかピーター・センゲの『出現する未来』だったと思うが、量子力学における「量子もつれ」の話が書いてあった。専門家ではないので詳細はよくわからないが、ある空間に置かれた量子の状態が決まると、遠隔にある別の量子の状態もほぼ同時に決まる、という内容だったと思う。線形上の時間を超えている、という点で、これもレンマと絡みうるのかもしれない。

現場の最前線で商売をやっていると、小難しいことを考えなくても、売上のためには論理ではなくて直感が大切、ということは身体にしみこんでいる。ロジックをもとに数字を組み立てていくことは当然やるのだが、その数字を現出させる大元になるのは全体を包み込む空気であったり、あるいはそこに流れる潮目だったりする。チームにただよう空気の質や、その場に蓄積しているエネルギーの大きさ、あるいは攻め時と守り時を見極める嗅覚、このあたりをしっかりとコントロールしながら地道に進んでいくと、ある時あっと驚くミラクルが起きたりする。ユング心理学研究の第一人者である河合隼雄が、クライアントと粘り強く向き合い続けていると、ある時、自分の力が及ばないところで様々な要素が絶妙な布置(コンスタレーション)をとり、クライアントが恢復に向かう、というようなことを書いていた。自分の力の及ばない大きなものとのアクセスを意識する、ということは、別にオカルト的な文脈ということではなく、重要な気がする。ということで『レンマ学』、ゆっくりと読んでいこうと思います。

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