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完全に風邪をひいた/noteを書く意義

完全に風邪をひいた。先週の水曜日から喉が痛くて、どんどん悪化していき、それでも仕事で声を出し続けて、ますます悪化した。今日、病院に行って抗生物質をもらったので、改善することを願う。それでも今日も仕事。職場の近くのエクセルシオールにて。

病気で倒れている時に読むと落ち着くのが、色川武大の『うらおもて人生録』。人生、常に勝ち続けることだけがすべてではない。戦略的に負けをとりにいく、ということも老練の人生論としては必要なんだ、というあたりが、起き上がることすらできないぐったりとした体にしみてくる。

Noteを書く意義というのをどこに求めるのか、ということもうつろな頭で考えた。たとえばKPIを自分のサイトのフォロワー数、ということにして、期限と目標を定め、そこから逆算してプロセスマネジメントを立て、PDCAをグリグリと回す、ということもできないではないが、それは仕事で十分にやっているので、別にプライベートでする必要もないかな、とも思う。

ネット上に文章を書く、ということを最初に行ったのは多分2000年ごろ。その頃は SNSはおろか、ブログすらなかった。家が契約しているプロバイダに割り当てられたサーバーを使い、HTMLを独学で学び、日本語と英語で、途中からフランス語も入ってきたが、いわゆるホームページを作っていた。そう言えば、二十歳で初めて海外に行ったとき、サンフランシスコ一人旅の土産も、オシャレなサイトのデザインを集めた本だった。配色の本を買ったり、バウハウスのデザインを真似てみたりと、コンテンツだけではなくビジュアル的な美しさにもこだわっていた。内容は文学や哲学。ちょうど大学の理工学部をやめ、ヘッセやニーチェにハマりながらバイトをしていた頃。同じ嗜好をもった海外の知り合いができるのも楽しかった。

文学理論に「期待の地平」というのがある。想定する読者が期待するラインをどのあたりに定めるのか。期待の地平を下回ると、読者にとっては驚きも何もなくつまらない文章で終わる。かといって期待の地平を上回りすぎると、もはや読者はついていけない。期待の地平を少し上回るくらいが、読者にとってはいちばん面白い。おそらくこれはリーダビリティとも関連している。つまり、自分が書いたものを読解可能なものとして、どこまで開くのか。修士論文の執筆の際にはこれで苦労したし、また、げんざい学生の指導をしていても、特に知識を入れ込んだ生徒ほどここに苦心する。専門的な文献を詰め込みまくった自分にとってはもはや「常識」と化しているこの言葉は、果たして、この文章を読む教授にとっても「常識」なのだろうか。教授なのでなんでも知っている気もするし、一方で教授といったってすべての作家の専門家ではないのだから、これだけでは通じないよな、というあたりの線引きの問題。

内田樹さんなんかもよくいっているが、「ご承知の通り」という前置きの後に語られる言葉がちんぷんかんだと、もう自分はこの作者にとっての読者からははじき飛ばされている、と感じる。だから読まなくていいや、となるか、だからこそ食らいつこう、と思うかは、その作品の力量とお互いの相性の問題なのだろう。

Noteについていうのであれば、自分が書きたいと思う文章を思うがままに書きながら、同時に自分が読みたいと思う文章を連ねていく、その中で同じような嗜好の人がなんとなくフォローでもしてくれたら、書く側としてもちょっとやる気になるかな、というゆるい感じでやっていこうと思う。ここがゆるい感じであるからこそ、仕事は数字ベースでロジカルにやっていく。

Noteという空間はネットという仮想空間上で自分の分身が作者である「私」の心情をほぼそのままに語る場としてあり、一方で物理的な存在である「私」がその身体を運んで行動する職場において、「私」は一人の他者としてペルソナを被り、よそゆきのロジカルな思考で与えられた役を演じる。それくらいのバランスがちょうど良い。

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