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マルクスと近江商人とヴェーバーとドラッカー / マルクス『資本論』覚書き part 4
マルクスの『資本論』を大変面白く読んでいる。ただ、このまま突っ走ってしまうと、自分を資本から搾取されている労働者として規定してしまいそうで、若干の危機感を感じる。自分自身を社会の被害者と思い込むほど惨めなことはないので、修正を図ることにする。
学生時代、フランスに留学していた頃、仕事の文句ばかりを言いやたらとストライキをしまくる労働者たちを見て、結局それであなたは幸せなの?と疑問に思ったことがある。自分の置かれた現状を批判的に分析し、社会の現状を変えるべく行動を起こすことは大変重要であり、見習うべき点は多い。また、そのような姿勢によって歴史が作られてきたということも事実だろう。ただ、それが被害者としての自分を正当化する言い訳になってしまうとよろしくない。
仕事について言うのであれば、例えばそれを近江商人のように「三方よし」を実現する手段として捉えることもできる。つまり仕事を、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」を通して社会全体をより良い方向に向かわせる一連の事業プロセスの一環として位置付けるということ。働くとは、根本的にみんなを幸せにする手段なのだ、というこの哲学は、一人の労働者として持っておくべき規矩でもあるだろう。
あるいは、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で分析したように、天から与えられた天職をまっとうすることを、自分が神から選ばれたものである証としてとらえることもできる。私自身は禁欲的プロテスタントではないので、この感覚を実感ベースで理解することは難しいが、しかし仕事を大いなる意思によって与えられたものととらえ、それをまっとうすることに人生を捧げる、というこの理念は、仕事に対するアプローチの一つとして、キリスト教信者ではない者にとっても大きな意味を持つように思う。
またピーター・ドラッカーが示唆するように、仕事をすることで、あるいはプロフェッショナルであり続けようと試みることによって、自分自身が律せられ、人間的な成熟が実現されるということもあるように思う。ドラッカー曰く、プロフェッショナルであるということは「真摯である」ということと同義である。自分はいったい何者として存在したいのか、そして死後、自分はどのような者として語られたいのか、この問いを自分に課しつづけることこそが、プロフェッショナルであるということである。
一人の労働者として、そして一事業所を経営するトップとして働いている現在の立場からすると、少なくともお金を払ってくれたお客さんに対しては誠実でいたいと思う。会社全体の売上高だったり、あるいは本部から課されたノルマには大した意味を感じない。そんなものは適当にあしらっておけば良い。ただ、目の前にいる、血の通った生身の人間であるお客さんに対しては、一人の人間として真摯に向き合うべきだろう。当然、ビジネスだから綺麗事だけでは済まない部分もある。度を越した理不尽やあからさまな悪意に対しては戦略的かつ適切に対応させていただく。
マルクスが提示した冷徹かつマクロな視点から資本主義の構造を分析しながらも、同時にそのような社会からは逃れられない一人の人間として、資本主義という現実をハックしていかに人間的な成熟を果たしていくのか、そして最終的にはいかに自分と自分の大切な人たちを幸せにしていくのか、そこに至る現実的な道筋をマネジメントしていく方が、よほど生産的なのではないだろうか。マルクスの『資本論』は最終解などでは決してあり得ない。『資本論』は、その読者が自らの生き様をかえりみる端緒として機能する時に、その本領を発揮する。
個人的には、仕事をしている時間は徹底的にプロフェッショナルを演じる、ただし仕事にのめり込みすぎて、もはやプライベートという概念が消失した三十代のような働き方はもうしない、というあたりが適当な落とし所だと思う。仕事と家族を天秤にかけたらば、確実に家族の方が下にさがる、つまり重みがある。あくまでも人生の中心は自分にとって大切な人たち。仕事はそのための手段にすぎない。そのためにもプロフェッショナルであり続ける、つまり自己を分裂させ、プロという演技をまっとうする役者であることで時間を潰す。そのようなあり方が、私には合っているように思う。
さてはて、ということで、今月中に読み終えることができれば僥倖と言えるかもしれない『資本論』、引き続きゆっくりと味わっていきます。