Art Guide: books 『レクイエム』 アントニオ・タブッキ
細かい内容は忘れてしまったが、そこに漂う空気感だけは覚えている、という小説がある。イタリア人の作家、アントニオ・タブッキがポルトガル語で書いた小説『レクイエム』も、そんな小説のひとつだ。
フランス語の参考書で有名な白水社が出している白水Uブックスの、「海外小説の誘惑」シリーズの一冊として出版された本書は、現実と幻想の境目がゆらめく南欧独特の白昼夢を呼び起こしてくれる。
七月の昼下がり、一人の男がリスボンをさまよう。彼はすでにこの世にいない人々との邂逅をくり返す。たしか、そんな内容だったと思う。主人公の男が探し求める人物、いま思えばそれはおそらく、タブッキのインスピレーションの源泉でもあったポルトガルの作家、フェルナンド・ペソアだったのだろう。
タブッキを読んでいると、なぜだか同じくイタリア人の映画監督、ミケランジェロ・アントニオーニを思い起こす。例えば『さすらいの二人』の、ジャック・ニコルソンの抑制した声色とすべてを焼き尽くす太陽と沈黙の長回し。死の延長線上に生があるような感覚におちいる、あの感じ。
そしてリスボンと言えば、なんと言ってもマドレデウス。たしか、ヴィム・ヴェンダースがマデレデウスを主人公とした『リスボン物語』という映画を撮っていた。まだ見たことはないが、ぜひいずれ見てみたい。
リスボンと言えば、もうひとつあった。学生時代に渋谷のユーロスペースで見て強い印象を受けた映画、ペドロ・コスタ監督の『ヴァンダの部屋』。リスボンのスラム街の日常を切り取った映像の絶望と、しかし画面を占める一台のベッドとむき出しの壁の圧倒的な美しさ。
『レクイエム』のページをパラパラをめくるだけで、その柔らかい紙を指でなぞるだけで、現実がふっと遠のく、そんな感じがする。書物に触れるという物理的な行動によって表象としての世界の露出の深度が変わるという、そんな現象を引き起こす本というのもめったにない。アントニオ・タブッキの『レクイエム』は、そのような意味において私にとって独特の価値を有している。