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少年院に来る子は「三角食べ」ができない子が多い?【シリーズ教誨師 第2回】

刑務所や少年院などの矯正施設で、被収容者(収容されている人)と対話を続ける宗教者を「教誨師 」といいますが、この成り立ちには浄土真宗が深く関わっています。本願寺派で宗教教誨がはじまり150年を迎えたのを機に、この活動を紹介します。

【第2回】教誨師の歴史①

前史

宗教教誨が制度化されるのは明治に入ってからですが、それ以前から仏教者による先駆的試みが種々の伝記に残っています。古くは聖武天皇の時代に、仏教精神に基づき囚人に対する宗教教育が行われたと伝えられ、平安時代には踊り念仏の祖といわれる空也が獄舎の傍らに卒塔婆を建て、尊像を奉安し、抜苦の因となしたという伝記が伝えられています(『佛教大辭彙第二巻』)。

江戸時代には老中・松平定信が江戸の石川島に人足寄場(更生施設)を創設し、授産のほか心学講義が行われました。心学ですから道徳的なものと思われるものの、こういった試みが監獄(現在の刑務所や拘置所など)における宗教教誨制度の前身といえます。

明治時代の動き

1872(明治5)年、日本で最初の監獄立法である『監獄則及び図式』が頒布されるなか、同年7月に真宗大谷派の僧侶・鵜飼啓潭が名古屋監獄での教誨を許可され、同年8月に同派の蓑輪対岳が巣鴨監獄(府中刑務所の前身)での教誨を許可されました。翌1873(明治6)年4月には浄土真宗本願寺派の僧侶・舟橋了要が岐阜監獄での教誨を許可された記録が残ります。これが日本における監獄教誨のはじまりとなります。

このことから昨年、本願寺派の教誨開始から150年となり、西本願寺で記念の式典が催されたところです。

公務員であった教誨師

1908(明治41)年制定の『監獄法』には「受刑者ニハ教誨ヲ施ス可シ」(第条)と規定し、監獄には官吏(公務員)として教誨師を配置し、受刑者に宗教教誨を受けることを義務付けました。

この少し前、各教宗派は積極的に教誨を支援し、様々な教宗派の教誨師が活動していました。ところが財政上の問題などで支援は徐々に減っていったようです。結果、官吏として教誨を担ったのが浄土真宗の本願寺派と大谷派のみとなった時期がありました。背景には東西本願寺の援助があったのです。
  

教誨の現場から

會田 悟氏 /水戸刑務所法務教官


 ―― 施設側として教誨師をどう感じていますか。
 収容されている人たちは、常に周りの目を気にしているから本音を語れる場がないんです。教誨師の先生は何でも話していいと言ってくれるので、彼らも、普段は見せない、すっとした表情を見せてくれることがあります。仏壇や神棚、十字架の前というのも大きいのでは、と思いますね。ですから、私たちには踏み込めない部分を補ってくれていると感じています。

―― 會田さんは少年院勤務が長かったと聞きました。
 平成元年から30年、少年院の法務教官を務めました。そこでの経験を一つお話ししましょう。少年院に来る子の多くは、親と食事をしていないんですよ。「三角食べ」ができない子が沢山います。だから家の味を語れない。

 私はね、おにぎりだけでもいいと思うんです。うちのおにぎりはいつもしょっぱいとか、海苔が巻いてあるだけだとか、それが「家の味」なんでしょう。自分がどういう人生を歩んできたかを語れるかどうかは、とても大事だと思っています。

(文/水戸刑務所所属教誨師・藤本真教)

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。