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「お母さん」、それとも「母」? フラット化する社会を考える

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「母」と「お母さん」です(本記事は2024年9月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

 様々なドラマを見せてくれた、パリオリンピック。スポーツの素晴らしさをたっぷり味わうことができました。
 
 同時に私がオリンピックのたびに気になるのは、アスリート達の言語感覚です。アスリート達の言語能力は、昔と比べると明らかに上がっています。おそらく今時の選手達は、インタビューの時にどう対応するか、といったレクチャーも受けているのでしょう。昔のように、何を話していいのかわからなくなってしまうような人はいなくなり、皆が流暢に返答しています。

 時代ごとに、受け応えに流行りすたりもあるようです。オリンピックの試合を「楽しみたい」と語る選手が増加してきたのは二十年前、アテネオリンピックの頃だったか。前回の東京オリンピックの時は、質問を受けた時、まずは、
「そうですねー」
 と言ってから答え始める、という選手が目立ちました。

 今回のパリオリンピックで私がもっとも強く感じたのは、「もうすぐ、謙譲語は滅びるのかもしれない」ということです。

「このメダルを、誰に見せたいですか?」
 という問いに、
「お父さんとお母さんです」
 と答えたり、
「ずっと支えてくれたお父さんとお母さんに感謝したいです」
 と言ったりと、今時の選手達はもう、自分の親のことを「父」「母」とは言いません。もちろんこれはアスリートに限ったことではなく、親のことを「父」「母」と言う若者は、滅多にいない。

 普段は「パパ」「ママ」と言っているのだけれど、インタビューの時はちょっと丁寧に言わなくては、と思って「お父さん」「お母さん」とアスリート達は口にしているのではないか、と推理する私。つまり「お父さん」「お母さん」を、彼らにとってよそいきの言葉として使用している気がするのです。

 そこには「謙譲」の感覚は見えないわけですが、それも時代の趨勢なのでしょう。昔は、「愚妻」「豚児」など、身内に対する過剰な謙譲感覚を表す言葉がありましたが、人権意識の高まりとともに、これらの言葉は使用されなくなりました。身内だからといって貶めなくてもよいのだ、という感覚になってきたのです。

 さらに今時の若者達は、「尊敬する人は親」というケースが非常に多い。大人になってもずっと仲良しという親子の場合、インタビューで謙譲する必要性を全く感じないのかもしれません。

 昭和人の私としては、インタビューで「お父さん」「お母さん」と聞くたびに、違和感を覚えてはいました。しかし次第に、「これでいいのかも」と思うようになってきたのです。尊敬語やら謙譲語やらの複雑なルールがあるせいで、我々は常に相手は自分より年上なのか年下なのか、といった上下差を意識しなくてはなりませんが、その辺りの事情を無視することによって、世の中は少しずつフラットになっていくのかも、と。

 年上の人にもタメグチで話すことができる人を、実は少し羨ましく思っている私。次のオリンピックでは若い選手の言葉がどのような新しい世界を開いていくのか、今から楽しみにしているのでした。
 
酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がベストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『枕草子(上・下)』(河出文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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