「ゆるく、楽しく」
紅顔の哲学者を目指して#22
2024.7.2(火)
今日は本屋での仕事があったが、体調不良なのでと言って休んだ。
前の本屋が閉店して新しい本屋に移ってから明日で大体1ヶ月が経とうとしている。早いのか遅いのかよくわからない。
ある程度基本的な仕事は覚えて徐々に慣れてきたかなあという感じ。でも、お店の雰囲気も広さも棚の位置も品揃えも働く仲間もお客さんも全て違うから自分が思っている以上に負担がかかっているのだと思う。
今日以外にも、一昨日も休んでしまったし、その前は途中で早退し次の日も休むということがあった。かなりギリギリで働いている。
この本屋で働き始めてから、働くことが精一杯で、本を読んだり外に遊びに行ったりができていない。働いて、食べて、寝ての繰り返し。好きな仕事をしているからそれでいいのだけれど、まだ仕事にも余裕がないしそれに伴って生活にも余裕がなく、キツキツな状態で息苦しい。だからもう少し余裕を確保したい。
今日は、ずっと寝てた。19時頃から病院の予約を入れていたから、夕方に家を出ていつも行っているパン屋さんに行った。朝から何も食べていなかったからお昼兼夕飯のパンを食べた。
パンを食べた後、少しだけ本を読んで病院へ向かった。
ちょうど今日の分でお薬が切れるのと、症状が良くならないのでお薬を増量してもらうために病院へ行くことにした。
僕が抱えている精神疾患は今年の一月初め頃に完全に良くなって完治したと思っていた。とても嬉しかったし、かなりその頃は元気だった。
でも徐々に症状がまた出始めてきて、2月の半ば頃に限界が来てしまった。その頃は本当に辛かった。働くのが難しい時も多く、前の本屋にはとても迷惑をかけてしまった。閉店の日まで体調が悪い状態が続いていたから、本当に後悔が残っている。せめて閉店日の月だけでも元気な状態で働いて終わりたかった。
治ったと思っていたのに、また病院に行きお薬を処方する羽目になってしまった。そこから大体4ヶ月以上経つが、少しは良くなったもののまだ完治はしておらず、仕事に支障が出てしまう程度の症状が残っている状態だ。以前はお薬を処方すれば数週間で良くなっていたのに、再発してからというものの症状が治るのに時間がかかるようになってしまった。
再発する前と同じお薬を飲んでいても良くならないため、増量してもらいそれをしばらく飲んだが少ししか良くなった実感はなく、だから今日またさらに増量してもらった。
これで良くなって欲しい。なるべく増量はしたくないし、そもそもお薬なんて飲みたくない。
今日病院から帰ってきてから母親と話している中で気づいたことがある。
精神疾患と関係があるかわからないが、僕は今まで色々な物事を頭の中だけで考えすぎていたのかもしれない。何かしようと思うと頭の中で(想像というか)考え込んでしまう癖があるような気がする。
去年の9月から哲学に興味を持ち、哲学関連の本を読むようになったが、それはこの症状に悪い影響を与えているのだろうか。そのような本ばかり読んでいるから、頭で考えることが多くなって症状が悪化したのだろうか。
そもそも、本が好きになってよく読むようになったことが間違いだったのか。特に小説を読んでいる時は映画などと違って、頭の中で想像をしないといけない。想像力はかなり鍛えられるのかもしれない。でも、僕の場合、その想像するという行為が逆に悪く働いてしまったのではないだろうか。わからない。
でも、考えすぎというのは確かにそうだろうと思う。
ここ最近は、今まで毎日のように読んでいた哲学関連の本も徐々に読まなくなってしまった。その代わり小説を今は読んでいる。
その中でも特に薄くて読みやすいものを。
ついこの間まではむしろ小説や文学作品のような読みやすい本を読もうとすると体が受け付けないというか、体が欲していないような、読む気が起きない状態が続いていた。
むしろ、哲学書のような難解で読みにくい本が読みたくて仕方なくて、そう言った本を開くと心の奥底からワクワクして夢中で読んだ。
もちろんそれは、読まなくてはいけないから読んでいたわけではなくて純粋に好きで読んでいた。
でも、何が原因かはわからないが徐々に、自分でも気付かぬうちにそう言った本を手に取らなくなり、気づいたら小説をたまに読むという生活に変わっていた。
本屋に行っても人文書のコーナーばかり見ていたのが、文芸書の棚を見るようになっていた。
今の僕の体は難しいことを拒んでいるのだろう。もっと簡単で楽しくて愉快な、幸せな気分になる本が読みたいのかもしれない。
もちろん哲学者になるというのが夢だから、哲学書をたくさん読みたいけど、今は自分の気分に任せて好きな本を読むのが1番いいだろう。
逆に1番怖いのは、哲学者になるという夢があるが故に本当は哲学書を読む気分ではないのに、自分の気持ちに反して無理をしてでも読もうとすることだ。
それをすれば、おそらくすぐに哲学というものが嫌いになり、哲学者になりたいという夢も失いかねない。そうはなりたくない。
だが今は自分の気持ちに従って読みたいものを読めているから大丈夫だろう。
でもどうして哲学書から小説へ読む本が移行したのだろう。気づいたら(もしくは無意識の内に)小説を読むようになっていたというよりも、目に見える形で自分が小説や文学作品を読むようになっているのが実感できた。
去年の9月頃から今年の6月頃までずっと哲学書を読んできた。読んだ本はシステム手帳に記入しているのだけど、それを見ても哲学書しか読んでいないのがわかる。
哲学書を読まなくなったのは、哲学書特有のあの難しさに疲れたからだろうか。それも少しはあるのかもしれないが、1番の要因は何かと考えた時に、自分が今見ている現実から背き虚構の世界に浸ること、言ってしまえば現実逃避をしたいと思ったからではないかと思う。
哲学書は虚構であってはならず、あくまで現実世界のことでなくてはならない。それに対して文学作品は虚構だ。どんなに現実離れしていてもそれが許される。
つまり、哲学書ばかり読んでいた頃の僕は現実を直視し、生命とは、人間とは、自分の存在とはなど、この世界に存在するものの存在理由について考えることをしていた。そうすることが必要だった。だから、そこには嘘や非現実的なものが介在する余地はなく、現実的なものだけが必要とされる。
だが、何かを理由にその現実から離れたいと思ったのだろう。哲学によって現実を直視しそれについて考えすぎた結果、少し疲れてしまい、そのような類の本を読まなくなったのだろうか。
そう考えると小説や映画などのフィクション作品は人間が生きる上で必要なのかもしれない。
本当は哲学書と小説の両方を読めたらいいのになとは思うが、今は小説を読むのが楽しいからたくさん今のうちに読みたい。もしかしたら、また哲学書を読み始めたときに今度は逆に小説が読めなくなるかもしれない。
この期間がどのくらい続くかはわからない。明日すぐに終わってしまう可能性もある。だから、たくさんの作品を読みたい。読んでない名作もたくさんあるからこれから楽しみ。
とりあえず、気の向くままに生きようと思う。
またね。