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三島由紀夫の最後の5年間、60年代後半とはどんな時代だったのか?

まずそれに先立って、60年安保闘争の敗退がある。(三島にとって映画『からっ風野郎』が封切られて2か月後)、1960年5月20日の衆議院での日米安全保障条約強行採決をきっかけに、これに対する反対運動は国民的なものになった。6月15日、全学連が国会構内になだれ込み、学生たちは警察のトラックに放火し、深夜の国会周辺は内戦状態になる。6月18日三島は国会前の記者クラブのバルコニーからこの騒乱を目撃した。翌日19日0時、新安保条約は自然承認された。翌年末三島は、226事件を題材に『憂国』を上梓することになるものの、しかし、60年安保がこの作品にどのように関係しているかは、なんとも言えない。むしろ60年代前半の三島は楽しそうだ。三島はボディビルにいそしみ、剣道の修行に励み、映画『黒蜥蜴』にも出演し、小説『美しい星』や『サド侯爵夫人』を書き、あの悪趣味な写真集『薔薇刑』を発表する。




なお、1960年代と言えばテレビの黎明期である。クレイジー・キャッツが大人気だった時代である。また、三島にはまるでピンとこなかったにせよ、1963年以降ビートルスは世界的スターに登りつめてゆく。ミニスカートは女性ファッションを変えた。時代の美意識はPOPになった。ルノワールやセザンヌはもちろんのことマティスやピカソ流の油絵のなかに洗濯機や冷蔵庫や自動車は似合わない。未来派芸術も古びてしまった。時代のアートはアンディ・ウォーホルがシルクスクリーンで表現する資本主義社会へのシニズムに王座を奪われた。やがて、60年代後半ロックンロールはヴェトナム反戦運動と、そしてマリファナとLSDと結びついてサイケデリックに感覚を拡張し、内面世界の探求に向かってゆく。さらに踏み込むならば、アメリカ由来のヒッピーはロマン派の再来であり、かれらは近代理性と物質世界を嘲笑し、精神世界の探求に向かい、ユング、太極拳、道教タオイズム、有機農法、イルカ~クジラ学の探求に乗り出しもした。




そんな時代にあって、いまだ小説は熱心に読まれ、あいかわらず文学は知性の王であり続けてはいた。ただし、新しい文学は安倍公房、大江健三郎、サルトル、カミュ、アレン・ギンズバーグ、ノーマン・メイラーに刷新されてゆく。三島の文学観はモダン・クラシックなものとして精彩を欠くようになってゆく。それでも三島は、国民的アイドル文学者であり、輝く知性として君臨し続けた。なにせ「1に朝潮、2に長嶋、3に三島の由紀夫さん」である。この時期三島は文学雑誌や女性雑誌のみならず、『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』の常連寄稿者にもなってゆく。しかし三島は大活躍を続けながらも、三島と時代の気分とのあいだのギャップはひそかに広がってゆく。どれだけ三島に同時代人意識が高かろうとも、しかし三島は戦中育ち丸出しの男である。したがって、60年代の三島は国民のおもちゃに見える。実はあの時期の三島は、少しづつ精神世界~神秘主義に惑溺していって、見えない世界と交流するようになっていった、とぼくは見ているのだけれど。




1960年代後半は、学生運動によって大学はもとよりたとえば新宿が解放区のようになったような騒乱の時代である。左翼運動が諸派に分かれ、まるでクーデター前夜のような不穏なふんいきに満ちていた。しかも小劇場が、フォークソングが、ロックが、フリー・ジャズがこの時代の気分と同調し、時代を活気づけた。




1968年、三島は民営隊たる楯の会を結成することになる。この時期すでに三島は自決を覚悟しながら、『豊穣の海』4部作を書いてゆきます。あの4部作をどう読むか? そして三島はいったいなぜ、どんな動機で自決に傾斜してゆくのか?






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