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三島由紀夫への扉を開く。

わたしはまがごとを待っている
吉報は凶報だった
きょうも轢死人れきしにんぬかは黒く
わが血はどす黒く凍結した……。

まがごと』部分。
(三島由紀夫『十五歳詩集』より)



誰だって人は自分自身のことが謎である。もちろん自然のことも、社会のことも、時代のことも同様だけれど。神話、宗教、哲学、科学、精神分析、脳科学、歴史学、社会学、そして文学の目的は、この謎に対して暫定的な答えを出すことにある。三島由紀夫もまた自分自身をはじめとした世界の謎にとらわれ、自分とは何者なのか、自分で考え抜き、社会にも歴史にも目を向け、たくさんの小説をこしらえ、随筆や論文も手掛け、それらについて自分で解説までおこなった。三島由紀夫は誇り高い男色者であり、戦後アメリカによって国体を破壊され、骨抜きにされた日本を憂う憂国のサムライであり自決して英霊になった人だったということになるだろうか。少なくとも、三島はそうおもわれることを望んでいた。



にもかかわらず、三島由紀夫は永遠の謎である。生前から三島読者だった人たちは1970年11月25日の三島の自決にびっくり仰天した。果たして自分たちはこれまで三島の作品をどこまで読めていたのか、なにを見過ごしてきたのか、と自分自身を責めた。ましてや三島の友人知人だった人たちはなおさらだった。しかも、白亜の豪邸三島家で開催されたホームパーティに何度となく招待された人たちにいたっては、自分たちにはなにも知らさることなく三島が自決したことに対して、けっきょく自分たちは三島の友達でもなんでもなかったことを知って悲しんだ。しかも、三島の自決は両親も妻もコドモたちも誰ひとり知らされてなかったのだ。あの自決に先立って三島は何か月にもわたって綿密な行動計画を立てたというのに。



他方、没後に読者になった者たちは、三島の挑発的なまさに命を捨ててのパフォーマンスから遡って、いったい三島はいつから憂国感情に支配され、2.26事件に魅了され、憲法9条を日本人奴隷化の象徴として改正を求め、自衛隊を目覚め奮起させようと演説し、「文化概念としての天皇」の復活の必要性をとなえるようになったのか? そこにはどんなきっかけがあり、どんな思想の練磨があったのか? 戦中/戦後に引き裂かれた三島の精神がいつどのように戦後日本に徹底して絶望し、戦中精神に回帰していったのか? 



いや、それともそもそも三島のあの自決は、ほんとうに政治的なものなのか? むしろきわめて個人的な、歪んだロマンティシズムに由来する〈死への欲動〉に導かれた人生最高のエクスタシーを求めてのものだったのではないだろうか? 




(昭和の時代は文学にきわめて高い権威があったゆえ、作家も読者も研究者も層が厚く、みんな熱心に本を読んでいた。しかも戦後の三島は社会のポップ・アイコン、誰もが知っている輝くスターだったので、なおさらみんな衝撃を受けた。なお、三島が自決した1970年11月25日は、新聞各社の夕刊が史上最高の売れ行きを記録した。)



しかし、誰がどのようにどれだけ考えようとも、結局万人が納得できるような唯一絶対の結論には至れない。なぜなら、三島とて人の子、しかもきわめて厄介な、気の毒な環境に育った人であり、しかも三島は当時はおおむね日陰者として生きてしまう人が多かったゲイ寄りのバイである。三島が語らなかったことのなかに真実が宿っている可能性はつねにある。(こうして三島の厖大な本は何世代にもわたって読み続けられる。)




それでも愛をもって三島作品を読み込んでゆくと、三島のオブゼッション(妄執)はものごころついてから思春期を経て成人し自決に至るまで揺らぐことなく終始一貫していることがわかります。たとえば、三島の歪んだロマンティシズムにおいては、(死への惑溺と死によってもたたらされるエクスタシーへの期待、同性愛への期待とその後の実践、現実を拒否して自らの幻想に生きる態度)がいつも必ず絡み合っています。これはいったいどういうことでしょう? 



次に、なるほど三島は少年作家時代に日本浪漫派の庇護を受けた。そして日本浪漫派はマルキストから転向した愛国的抒情派文学者たちであり、見方によっては極右文学者たちでさえある。(ぼく自身はそこまで言う気はないけれど。)しかしあくまでも三島はかれらの庇護を受けただけのことで、三島自身はラディゲやプルースト、そしてオスカー・ワイルドを信奉する孤高のロマン派だった。しかも、三島にとってそれは戦時下の時代潮流への反抗でさえあった。少なくともぼくはそのように理解する。つまり、三島の自死から遡って、三島の少年時代の日本浪漫派とのつきあいを解釈することはひじょうに危なっかしい。少年時代の三島のロマンティシズムは、日本浪漫派のそれとは峻別されるべきだとぼくはおもう。



ぼくの見方によると、三島が憂国思想を掲げ、戦後思想を否定し、文化的天皇の復活を唱えるようになるのは1963年の『林房雄論』をふりだしに、(しいて言えばそれに続く『剣』、『喜びの琴』を経て)、1965年の『憂国』、1966年の『英霊の声』においてに過ぎない。1968年が楯の会結成でこれが1970年の自決に結実する。いずれにせよ、三島の右傾化は最後の7年間に限られたこと。これはとても重要なこと。(なお、三島は1968年に『命売ります』なる一見他愛もないエンターテイメント小説を書いていますが、実はこの小説はおもいのほか重要かもしれません。)


さぁ、これから三島の作品と波乱万丈な生涯を読み解いてゆきましょう。必ずやあなたはあなたの知らなかった三島と出会うことでしょう。




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