学校に行かなという選択。「誰かと比べない、比べられない。自分で学ぶということ。」
13歳の長男は、小学校に3日間ばかり登校し、この3月、無事に小学校を卒業した。
この春から中学生になったが、彼の学びに対する姿勢は一貫している。
「中学校には行かない。」
中学入学までに関する記事はこちら。
中学校の先生とは、月に1回・20分程面談をしている。生存確認の意味もあり、家庭でどの様に日々過ごしているかをお話する場である。
「制服は何の為にあるのか。」と疑問を呈していた長男の気持ちを汲んでいただき、担任の先生の担当授業のない時間帯に面談を行う事になり、他の生徒たちと顔を合わせることがないので、「私服で来ていただいても構いませんよ。」と言っていただいた。
ジャージを羽織るくらいは、やってやらんこともない、と歩み寄っていた長男には朗報だ。そして、先生の柔軟な対応に感謝だ。
入学式前にも面談を済ませ、2回目の面談では、「学校における評価」のことや、「行事への参加の仕方への確認」などが主な内容だった。
・学校では、「学校に通うこと」「授業態度などの日常評価」が評価の主な対象となること。
・定期テストやミニテストをだけを受ける、という日常、学校に来ていない生徒も居るが、どんなにテストの成績が良くとも、評価は良くても5段階の2もしくは1という評価となること。
なるほど。
どんなに定期テストで良い点を採ろうとも、日常的に学校に通っていないということで、評価に結びつかない、ということだ。逆に言うなら、テストで点が悪くても、毎日学校に来ているということが評価される、ということだ。
わかるけど、わからない。
先生のおっしゃることは、理解できる。
ただ、システムとして、「学校に来てさえいれば、勉強の成果云々だけでなく、そこそこに評価される」ということは、本当に子どもたちの学びへの気持ちを育てるのだろうか?と疑問に思ったりもする。
「評価が1や2しかつかないということは、全日制の高校への進学は、難しいということになります。」
評価、評価、という言葉が繰り返され、評価の中で中学生時代を送った私の気持ちは、少しだけ、ざわついた。内申点というものが、進学に於いて、物凄く効力を発揮することを体験していたからだ。
しかし、長男が全日制の高校への進学を望んでいるかと言われれば、そうではない。
正しくは、現時点では、そうではない。
中学一年生の4月時点で、高校進学を視野に入れている子は、どれくらいいるのだろう?と思いながら先生の話を聴いていた。
長男は、学校に来ない理由を聞かれ、
「この前も言ったけど、別に家でも勉強はできるし、友だちが欲しい訳でもないから、学校にいく意味がないから。」
またまたハッキリと言うな、この王子は。
ばあや、オブラートに包みようが無いではないか。
しかし、彼はずっとそう思っているし、実際に自分で勉強に取り組んできている。学校以外の場所に友人・知人がいて、大好きな生き物のことへの知識も経験も日々、増えている。
担任の先生は、彼の言葉を聴いて、
「あぁ、そうだよね。学校への往復の時間、勿体ないもんね。」
・・・あっさり。
あっさりしていて、ありがたい。
何かを押し付けることなく、聴いてもらえるだけ、ありがたいと思う。
長男と同級生の女の子がいる知人がSNSで呟いていた。
「娘が、中学初のテストで学年5位以内に入ったことで、何かスイッチが入って、勉強に対して目の色が変わった。〈ねばならない〉という思考をしがちな子なので、勉強をし過ぎるのでは、と変な心配をしている。」
まとめるとこんな感じの内容だった。
学校で集団生活をして学んでいたら、当然、人からの評価、人との比較によって、自分の位置づけをすることになる。300人中何位の成績であるかなどが、今後の自分の学びの指針になることも理解はできる。
中学時代の自分を振り返ると、どれくらいの点数を取れるか、学年でどの位の順位なのかをモチベーションにして勉強をしていた。
頑張って進学校に入るために勉強したが、いざ高校に入ってみれば、〈学ぶことが好きなひとたち〉と、自分の学び方の差に愕然とし、そこから勉強への興味は一気に失われた。
今になって思えば、順位や点数というモチベーションでない、別のモチベーションがあったら、私の学びはもっと違う形を成しただろうと思うのだ。
順位をモチベーションにして、勉強する時期があってもいいと思う。
それもひとつのやり方。
しかし、「わかった喜び」「知りたいという欲求」「学ぶことが楽しい」と感じて勉強している人のモチベーションには敵わないと私は感じた。
長男の同級生が、「よい成績を修めること」を目標にスタートし、それが何処で「学ぶ喜び」に出会い変わっていくか。順位優先のモチベーションが続くのか。それは未知だと思う。今は、「勉強して良い順位を取る」ということを目標にするのだってアリだろう。彼女が今後、どんな風に学んでいくのか、興味深い。
さて、我が家の長男はというと・・・
何だかんだ言いながら、自分で勉強している。
数学の教科書を数ページ、NHKラジオの中学英語。
毎日、自分で決めた分を必ずやる。
誰に言われなくても、やる。
彼の中で目標があるのだ。
「その目標に向かう為には、つまらなくても、大変でも、やるしかない。」と彼は思っているようだ。
毎日継続する、ということは簡単ではない。
長男は、朝、家を6時に出て、自転車で大きな公園に行き、3キロのコースを友人とウォーキングし、8時頃、自転車にて帰宅する。
帰宅後、トランペットの練習を30分。その後に数学と英語。これが朝の彼の日課である。
旅行など、イレギュラーなことがない限り、やると決めているようだ。
学校に行っていれば、「今、どのくらい自分が学べている状態なのか」をテストなり、授業の理解度で確認できることもあるだろう。他の生徒との比較で自分の理解度を把握することもあるかもしれない。
しかし、彼はそのような「評価」の中に身を置いていない。
誰かに評価されるとか、他人と比べて自分の位置を確認するのではない。
ひたすら、「自分と向き合う学び方」だ。
なにこれ?わかんない!といいつつ、諦めず、理解しようとする。
文句が多く騒がしいが・・・。
隙間時間を見つけては、英語のリスニングをする。
彼が自分の今の学力を知りたいと思えば、テストを受けることも可能だと思うし、学校以外でも検定などもあるだろう。
学校に行かない選択をすることは、様々な側面がある。
自分で時間の管理をし、自分で学ぶことを決め、自分で取り組む。それは、大人の私でも容易ではないと思う。
しかし、「やりたい事を叶える為には、必要だ」と自分で感じ、考えているから、学びを諦めない。
私や夫は、できる限り、長男が楽しく学べる方法を本人と模索している。彼の性格に合う学びの方法があるだろうかと常にアンテナを張っている。やってみて、しっくり来なければ、また違うやり方を一緒に探す。
私たち親が出来るのは、その位だ。
長男が自分で自分の学び方を確立するには、もう少し経験と時間が必要だと思うから。
長男は、ブツブツと文句を言いながらも、学びを止めない。
好きではないことも、好きなことをやるために、クリアしなくてはならないと知っている。それは、好きなことをする為には避けて通れない過程だと自分で納得しているからだと思う。
誰かにやらされているのではないから。
自分で自分の為に学んでいるから。
その過程が少しでも楽しいものになるように、協力したい。
私も夫も、毎日、自分の意志で学ぶ長男を手放しで尊敬している。
学びとは、誰かに与えられるものではなく、自発的なものなのだ。
長男は、それを体現していると思う。
それを間近にみることが出来る私は、とても貴重な経験をさせてもらっている。
「自分の意志で学ぶ」とは、どういうことなのか。
このことは、私が子どもたちの育ちの中で大切だと感じているテーマだ。
私たち大人は、育ちの過程を邪魔しないようにと自分の言動に注意を払う。
そして、長男が黙々と勉強する姿を横目で見ながら、彼のこれからの学びが、ますます豊かであるようにと日々、願うのだ。