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【読書記録】『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』

大学の終身雇用にまで登り詰めた著書がバーンアウト(燃え尽き症候群)に至って、仕事を辞めてしまった。本書はそんな著者が自分の状態を知るためにあれこれと調べたり、足を運んで気づいたことについてまとめられたものです。

本書では、バーンアウトは仕事における「理想」と「現実」のギャップに引きずり込まれることと定義されている。

この背景には仕事を取り巻く環境と文化的に原因がある。

これからバーンアウトの歴史、バーンアウトの定義、その対策について書いていく。


バーンアウトの歴史

歴史は紀元前4世紀のギリシャに遡る。当時はメランコリアと呼ばれ、精神生活を気高く追求するものに訪れる名誉の証だった。

それは、後にキリスト教徒にアケーディア(真昼の悪霊)と呼ばれ、修道士生活を退屈に思わせ、世俗を思い出させるものへと変わる。この悪霊を押さえ込めるために労働が手段として使われた。この時の労働は意味を成さなく、悪霊をただ退治させるだけのものだった。

後にアケーディアは七つの大罪が1つ、怠惰に変わった。アケーディアは現代で考えるなら仕事に集中できなく、インターネットにアクセスさせようとさせるものである。しかし、これは仕事では取り除くことはできない。パソコンを使って仕事をしているのにも関わらず、この誘惑は無くならないからだ。

19世紀に入ると、神経衰弱として現れ始めた。神経衰弱になるのは、文明の進歩の結果であり、罪のない犠牲者として扱われた。これらを患う人は都市部の職業で働く人が多く、「肉体労働よりも頭脳労働のほうが重要」と思わせるものだった。

神経衰弱は一連のランプのように例えられた。個人差はあるものの、人は全てのランプを照らし続けようとする。しかし、時間が立てば全てのランプを照らし続けることは難しくなり、ランプは消えてくる。だが、全てのランプは消えることなくチカチカとつき続ける。消えたランブは戻らない。つまり、この病は治らない。

また、神経衰弱の症状は多種多様にあるため、都合のいい流行り病としてビジネスに組み込まれた。そのため、全ての病の代名詞となってしまい、なんの意味もない病になってしまった。みんなが患っているものは病とは呼べないからだ。

そして、20世紀半ば~後半でバーンアウトとして現れ始めた。語源はヘロイン中毒者の血管に対して使う言葉で、同じ血管に打ち過ぎて使い物にならなくなると「バーンアウトした」と呼ばれた。

この文化的な背景には雇用の不安定化、感情労働、プロ意識、仕事への理想が挙げられる。

雇用の不安定化は1950年代から派遣事業が生まれたことにある。それまで雇用者が背負うリスクとコストが労働者に転嫁された。そもそも派遣事業は有能で魅力的な女性事務員を雇うためのものだった。この当時は家父長制(家庭内おいて男性が絶対的な権力を持つ)で男性が家族を養うものとして考えられていたため、女性労働者は小遣い稼ぎで働いているだけだと考えられていた。

派遣会社は、正社員は怠惰で進歩がないという考えを広め、急成長した。正社員を切るのは会社として体裁が悪いが、派遣社員なら仕事が終われば切ってもなんとも思われない。それに自社の社員ではないので経済状態や心理状態を気にする必要もない。

感情労働は産業の高度化によって、サービス業が増えたことにある。対人サービスで働く人たちには同情的な配慮と客観性を持った対応を求められるため、疲弊してしまう。

感情労働に関する古典的な研究書『管理される心 感情が商品になるとき』では、非番の客室乗務員が笑顔を演じ続けてしまうとある。

今や私たちの感情は生産の手段になってしまっている。

この感情労働はプロ意識にもつながる。

感情労働はホワイトカラー(デスクワーク)の労働者だけのものではなく、ブルーカラー(製造業)の労働者にも求められた。

プロ意識とは、政治学者のカティ・ウィークスが言うには、

「プロフェッショナルとは、仕事には個人で取り組むが、やっかいな同僚や依頼人、患者、学生、乗客、顧客と対処するときには、個人としてあたらないこと」

P117

としている。

また、プロフェッショナルなら、たとえ休日でも頼まれればコールセンターのシフトに入ることを嫌がらず、電話をかけてきた相手から理不尽なことを言われても丁寧に対応できることをいう(p117)。

プロ意識の先がけとなったのは、トヨタの参加型経営スタイルだ。「時間給で働く視点」を労働者に捨てさせ、自分たちを「新米経営者」だと思わせた。

これを社会学者のヴィッキー・スミスは

「これまでの自分から一歩踏み出し、自身の人的、文化的資本を活性化させれば、品質、革新、効率を向上させる」

P118

ことを労働者に思わせた。

このことに対して、昔のある工場労働者は

「ただ出勤して、仕事をし、家に帰るだけだった。考えることに対して給与が支払われていたわけじゃないし、こっちも給料をもらうためだけに仕事をしていたからね」

P118

と語っている。意欲を持たないことが強固に守られていた。

しかし、この影響で仕事の責任は彼らの心の奥底に入り込んでくるようになった。具体的な問題がなくても、つねにブレインストーミングをしていなければいけなく、主要な仕事がより抽象的になったため「忙しそうに見える仕事」をしなければというプレッシャーを感じるようになった。

また、仕事と仕事以外の生活を分ける、目に見えない精神的境界線を維持する責任まで負うようになった(p119)。

仕事が労働者の人格そのものを利用するようにのれば、仕事とそれ以外の生活を切り分けることなどまず不可能だ。仕事で身についた規範は、家庭生活や市民生活にも持ち込まれ、そうやって持ち込まれた規範は、家庭生活や市民生活の規範と混ざり合う。

P119

仕事への理想は以下のようなものである。

仕事がない惨めさは、物質的なものだけでなく、心理的なものでもある。

P137

仕事は「尊厳」「人格」「目的」の源とされている。

これは働けばかならず幸せになるという「高貴な嘘」と言われるものだ。社会の仕組みを正当化する一種の虚構でしかないが、それがなければ社会は大混乱する、とプラトンが言っている。

聖書の冒頭には 人間の労働に目的を持たせる言葉で埋め尽くされている。

神はエデンの園の手入れをさせるために人間を創造されたが、その人間が神に背くと、神は男女で仕事を分担させ、困難な労苦の人生を送るよう言い渡されたとある。

P144

そしてカルヴァンとルターは「天職」という言葉を作り、いかに仕事が神の命令を遂行するためのもの(目的)だと認識させた。ここで仕事は生活のためのものではなく、仕事は仕事以上のものと精神活動に転換させた。

また、プロテスタントの倫理観にも由来している。これは予定説を提唱したカルヴァンの神学理論に由来する。予定説とは、救済される人は予め決められており、それ以外の人は滅びることが決まっている。救済されるものは神だけが知っていて、変えることもできない。また、人間は誰が救われるのか知ることはできない。しかし、神から選ばれた者は社会に善行を行う。なので、「自分が善行を行っているか?」は、自分が神から選ばれるに値するかを示すしるしになる。

「尊厳」の源は1600年代の開拓時代のジョン・スミス船長による脅しから始まった。

「毎日、私と同じように収穫をしない者は、翌日には川の向こう岸 へ置かれ、その態度を改めないかぎりは怠け者として要塞から追放される」

P141

という脅しを出して、「働くもの」と「働かざるもの」を2分させた。これは新約聖書の「テサロニケへの二番目の手紙」の一節、「働かざる者は食うべからず」を引用したもので、仕事をするものが尊厳への唯一の道とさせた。

「人格」の形成は繰り返しの仕事にある。若いティーンエイジャーが時間通りに職場に来て、責任感や倫理的に正しい行いを繰り返す行うことでしっかりとした大人になるとされるものだ。

全てをまとめれば、天職に就いて働くことで「尊厳」「人格」「目的」を得られる。というのも、まず天職に就いて働くこと自体で尊厳を得られる。その仕事は繰り返しの作業であるから、人格が作られ、それを繰り返すことで神計画の一部に貢献し、自らが救われるかどうかのしるしも得られるということだ。

こういった背景から仕事に専念することが良いこととされた。

また、チクセントミハイはフロー(没頭)は幸福を感じる上で非常に重要と考えた。

彼と一緒に研究をしたジーン・ナカムラは

「フローという経験的レンズを通じて見た場合、良い人生とは、自分がしていることに完全に没頭したている人生をいう」

P150

と言っている。

仕事はフロー状態に入りやすい。なぜなら、

「目標、評価、規則、挑戦のすべてが組み込まれており、そのすべてが労働者に、仕事に関われ、集中しろ、没頭しろと促すからだ」 

P149

自分が価値ある存在だと知るのは難しい。自分に価値があるのか?に囚われるのは、社会に善行をしたものが救われるのだから、その人は価値があるはずである。

しかし、雇用者のリスクとコストを労働者が背負った新自由主義の時代では経営者に嫌われたら終わりで解雇される。神が雇用者に代わり、自分は雇用されるに値するべき人物か?を知るために仕事に専念する。

この心情を労働者全員が持っており、誰もが「私こそが価値ある人間だ!」と主張をする環境にある。そのため、常に競争心を煽られる。この環境に付いていけない人がバーンアウトする。

バーンアウトの定義

バーンアウトに明確な定義は存在しない。先に書いたように神経衰弱と同様に明確な定義が存在しないことをいいようにビジネスに使われている。バーンアウトはたちが悪く、WHOの認可を受けた病名になっている。そのため、実際にどのくらいバーンアウトしている人が世界にいるのかは分からない。

著者はバーンアウトを仕事における「理想」と「現実」のギャップに引きずり込まれることと定義した。

また本書ではバーンアウトの程度をマスラーク・バーンアウト・インベントリー(MBI)という尺度を使って定義した。これを定義したマスラークはバーンアウトを初めに発見した内の1人である。

バーンアウトには消耗感、シニシズム(冷笑主義、脱人格)、個人的達成感の低下の3つの要因がある。

具体的には、

消耗感:
仕事に絶えずエネルギーを吸い取られること
シニシズム(冷笑主義):
顧客や学生を助ける相手ではなく問題として見ること
個人的達成感の低下:
仕事で何も達成できないこと

と、書いている。

労働者がバーンアウトしているかはこれらの要素のスペクトルによって決まる。つまり、どこかで線引きをしてバーンアウト「している」「していない」を決めているわけではなく、それぞれの濃淡で決まる。1つの要素が強い場合もあれば、全ての要素が強い場合もある。しかし、バーンアウトの仕方は労働者自身には選べない。

バーンアウトがする割合は以下の通りで多い。

達成感の低下 > 消耗感 > 脱人格化

バーンアウトの症状が出る原因には6つの要素があるとされている。それは、「報酬」「価値観」「コミュニティ」「作業負荷」「裁量権」「公正さ」の6つだ。

バーンアウトしやすい人は気持ちの浮き沈みが激しく、不安を感じやすい人。また、積極的で競争心の強い人は特に疲労しやすい。

また、年配の労働者よりも若い労働者がバーンアウトしやすい。なぜなら、仕事、それも天職と呼べる仕事についた直後は仕事に対する理想がもっとも高いからだ。

これを乗り越えられるのは、理由がなんであれ、現実と理想が解離しなかった人であり、マスラークは「サバイバー」と呼んでいる。

他にも、人種による不公正もある。研究結果として不十分ではあるが、黒人は白人に比べてバーンアウトしにくい。というのも、白人に比べて黒人は賃金が低く、頑張らなければいけないという意識が強い。そのため、仕事に対しての理想が元から低い。

ポストバーンアウト社会

では、バーンアウトをしない社会を作るにはどうしたらいいのか? 完璧には無理だろう言っている。なぜなら、人間が努力して働く限りは苦痛は切っても切り離せないものだからだ。しかし、予防することはできる。

著者は哲学者のジョナサン・リア『過激な希望 文化的荒廃時における倫理』を引用した。

特定の文化体系のなかで成功しているひとたちは、そのシステムが崩壊した場合の解決策を見つけるのに「もっとも適さない人たち」(略)「自分の文化のなかで成功しているせいで、かえって急激に変化する新たな未来の挑戦に立ち向かえなくなるのかもしれない」

P274

そのため、現在のシステムのなかで努力も成功もしていない人たちに焦点を当てた。

著者は自分の駐車場アルバイト時代を思い出し、その仕事は仕事への理想は低く、報酬は妥当で、同僚とも仲が良かったと振り返っている。

これはバーンアウトの6つの要因のうち「報酬」「価値観」「コミュニティ」「作業負荷」はクリアされている(私の感覚)。

著者は自分の数少ない経験から結論を出すことに否定的だが、調べきたことと自分の状態を照らし合わせて考えた。その結果、現在のバーンアウト文化である仕事における「理想」と「現実」のギャップを埋めるためには、「理想」を下げて「現実」に近づけることが大切だと言っている。

また、労働の尊厳を仕事に移す必要がある。これまで、労働の尊厳は人間がある仕事を満たした時に得られていたものだった。これでは、完全な仕事を人間ができなくなった時に尊厳は失われる。そうではなく、ただ仕事をしているだけで労働の尊厳を得られるようにするべきだと言っている。

砂漠のキリスト修道院のベネディクト会ではこれまでの修道士生活を維持するために、利益が出ている事業を途中で辞めた。修道士たちにとっての第一優先事項は「祈る」ことであって、仕事ではない。彼らの仕事は悪霊を呼び起こさないための労働である。そのため、労働時間の終わりが来て、仕事が残っていたとしても「仕事を忘れる」そうだ。

若い修道士には仕事を辞められない人もいる。それは、仕事をすれば何かしらの成果は出るが、祈りはなんの成果も見えないからだ。それなら、当然働きたいと思う、と神父は言っている。

しかし、彼らの中にとっても仕事は生活するために必要なものでもある。中には、自分の仕事がこの修道院のために役立っていると感じるものもいるそうだ。だが、その人たちは修道院にはいらない。自分が役に立っているという心を捨て、謙虚な気持ちで仕事に向かえるまでは仕事を禁じさせているという。逆に、この経験を活かして世俗でやっていきたいという人は修道院を去った。

多数の障害を持つアーティストのエリカ・メナは自分自身に気分を問いかけて仕事をする。彼女は新進気鋭の学者だったが、体調を崩し、障害を患ってから考えを変えた。

それまでは「仕事をすることで自由が得られる」と考え働いていた。しかし、障害と資本主義を結びつけ、病は資本主義的な概念だと気づいた。健康な人とは働ける人であり、病気の人とは働けない人であると。慢性的な病ではある障害を持つということは永遠に資本主義から阻害されることを意味する。

しかし、障害を貰ったことで自分は自分の身体と感情とともに存在していることを知った。たとえ働けない日があったとしても、「とりあえず生きていることしかできない日もありますが、それでいいんです」(p247)という。

また、仕事と人の尊厳には関わりがないことを示す言葉を残している。

「世界中のどんな生物よりも、うちの猫がかわいい」と断言するメナは、「でもこの子はなんの仕事もしていません。文字どおり、ほんとうになんにもしてないのです。それでもこんなに愛されるのなら、人間だって同じですよね?」と言う。

P254

著者の友人、パトリシア・ノーディーンもエリカ・メナ同様に学者であったが、障害を気に仕事から離れる生活をするように。

彼女は障害者を示す「ディスアビリティ(能力がない)」という言葉を嫌っている。なぜなら、あらゆる職業とアイデンティティを吹き飛ばすからだ。

彼女は仕事から離れた後、絵を描き始めた。きっかけは友だちに勧められたオンライングループで絵を誉められたからだ。それから、インスタグラムで絵を投稿するようになった。

彼女はアリストテレスを引用してこう言う。

「アリストテレスをどう訳すかにもよりますが、私たちは〈社会的〉または〈政治的〉存在です」(略)自分の作品を人に見てもらうことで「孤独にならずにすむのです。作品を投稿する行為は、自分の社会の一員だという感覚を味わわせてくれる」

P252

彼女はコロナ禍において、友達と絵日記を始めた。互いにオンライン上で毎日描いた絵を公開し、100日後に絵を描いたスケッチブックを互いに送りあうものだ。
この経験を聞いて、著者は仕事中心の生活から抜けたとしても、自身の成長のためにスケジュールを守り、目標を目指し、責任を持つという道徳的な仕組みは必要と書いている。

最後に著者の話に戻る。なんだかんだ仕事を辞めてからも教職に憧れを持ち非常勤講師として大学で働いているそうだ。

著者は元々、同僚や学生と切磋琢磨して議論ができることを期待して教職を目指した。しかし、その生活は叶わずにバーンアウトした。

今も心の中ではそのことがよぎるそうだが、昔よりも自分の仕事に期待せずに働いている。
(この本を書いている時も自分がバーンアウトしていないと分かっていながらもMBIを受けて、問題ないことを確認したようだ。)

著者の年収は以前の1/4になったが、妻の支えもあって快適に過ごしているそうだ。


感想

ちぐはぐな所もあるが、流れとしてはこんな所だと思っている。

全体感として、ものごとの歴史をたどると大体キリスト教に落ち着くような気がした。

それは歴史のストーリーの出どころはアメリカやヨーロッパに多いからかもしれない。けれども、日本人にとって宗教は身近にないのでつながりは分かりにくい。

しかし、「身近にない」というのは思い込みだった。本書で「働かざるもの食うべからず」はキリスト教の教えであると知った。他にも当たり前に思っていることが実は宗教の教えだった…ということも全然ありえるんだろうなと。 

これまで「なぜこんなに仕事で頑張らなければいけないのか?」と感じていたのだが、本書を読んでスッキリしたように感じた。

日本人とって、働くことが神から救われるしるしになると思いながら働いている人はクリスチャンを除いていないだろう。

けれども、プラトンが言うような「高貴な嘘」は引き継がれ、「働くものは必ず幸せになる」と思っている人は多いように思う。

しかし、現代の若者は昇進意欲が少なく、余暇の時間を有意義に過ごしたいと考える人が多いと聞く。

これは、高貴な嘘はまやかしであると見抜かれている。もしくは、日本の経済状況を鑑みて、頑張って働いたところで見返りが少ないから自分の時間を大切にしよう、と考えているのではないだろうか。

日本経済で見ればマイナスかもしれないが、仕事を第一優先にするという考えは薄れ、バーンアウトする人が減る兆しになるかもしれない。とは言っても、表面的にも仕事に意欲が持てない人が増え続けると日本社会はどうなってしまうのだろうか?とも思う。

「労働の尊厳を仕事に移す」のもいい案だと思った。これは身近な話としてあるだろう。

「あの人は仕事ができないからいらない」と、誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。

これは労働の尊厳が労働者にあり、その労働者が仕事をこなせないから言われる言葉である。つまり、仕事をしていても、一定レベルにならないと「仕事をしていない」と見なされる状態にある。これではダメで、ただ働いていて偉いという状況を作らなければならい。

キリスト教社会ではこの根本に「神から救われるか?」にあるが、日本社会では「なぜあの人と同じ給料なの?」につながる。

アメリカのようにキリスト教の根本的な話には繋がらず、「働くものは必ず幸せになる」という「高貴な嘘」につながっているように感じる。もちろん、適切な報酬が貰えているか?もバーンアウトの6要素の1つであるが、「高貴な嘘」を土台としているため、アメリカと同様にバーンアウト文化を引き継いでいる。

ここで気になったのは、日本の労働文化はいつからこうなったのか?ということだ。これは分からないが、第2次世界大戦を経てアメリカに占領されたことが原因にあるのではないだろうか。アメリカは日本を自国にとって都合の良い国にしようとした話はよく聞く。具体的なことは知らないが、この辺が関係思想だなと思っている。

砂漠の修道士の話で、儲かっている商売を辞めること、労働時間の終わりが来たら「仕事を忘れる」ことも中々の衝撃だったが、それ以上に俗世から来てすぐの若者が「仕事を辞められない」の方が驚きだった。

雑談の一環として「休日は何をしていますか?」と尋ねることがある。休みに対する考え方は人それぞれだが、休みの日は休むことが目的である。しかし、ただ「寝てました」とか「ぼーっとしていました」と言うのは中々はばかれる世の中にあると思う。

休みの日でさえ、「何かに打ち込みどんなことを得たか?」。つまりは、成果を求める世の中にある。

例えば、仕事の休職期間も同じだろう。転職活動をした際に「休職期間は何をしていましたか?」と聞かれる。「休職」中なのにも関わらず、「何をして何を得ましたか?」と成果を求められる。

そして、「自分は何もしていない」と落ち込む。

どこかで資本主義は宗教ということを読んだことがあるが、まさにこれだと思った。「資本主義教の教えを守れずに何もしていないでごめんなさい」と言っているようにしか聞こえない。何もしないことに対して罪悪感を抱くことこそが資本主義の内にいる証拠なのだと感じた。

エリカ・メナの愛猫の話を読んで、仕事で得られない尊厳を家族で得る、という視点を考えるとより納得した。

というのも、現在の仕事を取り巻く文化は自分が何かを貢献しなければ承認は得られない。しかし、家族という視点で見ると何もしなくても尊厳を得られる。

そんな関係を求めて結婚したい人もいるのではないだろうか。
(しかし、

仕事が労働者の人格そのものを利用するようにのれば、仕事とそれ以外の生活を切り分けることなどまず不可能だ。仕事で身についた規範は、家庭生活や市民生活にも持ち込まれ、そうやって持ち込まれた規範は、家庭生活や市民生活の規範と混ざり合う。

p119

と、引用したように家庭でも家事をしない夫は仕事と同じように尊厳を得られない環境になってきている。)

今では結婚もハードルが高いものとされ、友達がいれば十分という人もいるが求められているものは同じではないだろうか。

何もしなくても自分を大切にしてくれる関係性が必要とされている。

最後にパトリシア・ノーディンの絵描きコミュニティの話をしたい。

彼女はインスタグラムに描いた絵の写真をアップし、誰かに見てもらうことで社会の一員である感覚を味わわせてくれる、と言っている。

noteには仕事を辞めたり、休職中のユーザーが非常に多いように感じる。そして、書いていることも自虐ではなく、なんとか立ち直りたい旨を書いている人が多いように感じる。

どういった意味で文章を書いているかは各々あると思うが、彼女と同様に社会に居場所を失ったように感じる人が、自分の居場所を求めて文章を投稿している人もいるのではないだろうか。リアルでダメなら、SNSで居場所を得ようと。


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