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アスペルガーな私のやらかし人生#1 私が発達障害と診断されるまで

まさか私が発達障害!?

私は、明らかに「どこにでもいるごく普通の平凡な子」ではなかった。

何をやっても「みんなと同じ」にできないし、何をやるにも人よりずっと時間がかかる。
周りからすれば、とにかく手のかかる、とても扱いにくい子だったと思う。親にとっても、きっと育てにくい子だっただろう。そういう意味では、親には手をかけさせてばっかりで申し訳なかったなと思う。

「自分は人と違う」という感覚は、幼少期からずっと持っていた。
「普通」とか「平凡」とかいった言葉は、私にはどうにも当てはまらないのだから。

「普通じゃない」「変わってる」と言われ続けて、もうすぐ半世紀。
その言葉は、私にとってまるで呪いの呪文のようだった。
あまりに言われすぎるので、その呪いの呪文がだんだん褒め言葉のようにすら思えるようになってきたくらいだ。

「普通」ってなに?
あんたたちの「普通」は私の「普通」じゃない。
変わってて悪かったな。
でも、これが私だから。

不器用な私は、人付き合いも不器用。
おかげで人生やらかしっぱなし。

だけど長く生きているうちに、それなりに強く逞しく生きられるようになってきた。
極度の対人恐怖症でまともに人と話せない。ひとりで出かけることもできない。そんな重度のコミュ障だった私も、年齢とともに経験を重ねるにつれ学習し、成長してきたのだ。

こんな私だったが、まさか自分が発達障害だなんて思いもしなかった。


もしかして私、発達障害なの!?

2020年4月、新型コロナウイルスの影響で在宅勤務がメインになった。
それまで毎日顔を合わせていた仲間たちと直接会話する機会が突然なくなってしまい、コミュニケーションはチャットかWeb会議、たまに電話。それが当たり前の日々になってしまった。

初めのうちは新鮮だった。移動せずに家で仕事ができることが楽しかった。会社に毎日通勤していた頃よりゆっくり寝れるし、なにより自分の時間が増えて嬉しかった。

しかし徐々に、コミュニケーションに不具合が生じるようになっていった。
このころ携わっていたプロジェクトのリーダーとのやりとりが上手くいかなくてとても難儀した。指示がいつも曖昧で抽象的。私にとってはまるで「なぞなぞ」のようで、毎回それを解かなければならないことが苦痛でたまらなかった。しかしどうやっても私の頭では解けないので、そのたびにチームの仲間に意訳してもらうなどして助けてもらっていた。

コミュニケーションが立ちいかなくなってくるにつれ、タスクをスムーズにこなすことも難しくなってきた。優先順位がわからない。何から手をつければいいのかわからない。スケジュール管理ができない。頼りにしていた仲間も他の案件で忙しくしており相談できない。頭の中がごちゃごちゃで、この状況をどのように報告をすればいいのかもわからない。
その結果、作業をスケジュールどおりに進められず、適切な報告もできずで、周りにしっかりと迷惑をかけてしまった。

リモートで仕事をすることの難しさを痛感した。
いっしょに仕事をしていたチームの仲間には「何も言ってくれないから、順調にいってるものとばかり思ってた。もっと早く報告してほしかった」と当然ながら注意を受けた。だが「コロナ禍でコミュニケーションが取りづらい環境になってから試行錯誤でやっていたけれど、自分たちにもコミュニケーションの取りかたに問題があったかもしれない」と謝罪の言葉もあった。そして、状況を改善するために協力してくれた。

私は、もう二度と同じ失敗を繰り返さないためにはどうすればいいのかを考える必要があった。いったいどうすれば上手くやれるようになるのか?
何か方法がないものか、ネットで調べまくった。

Google検索して調べているうちに、「発達障害」というワードが目についた。何の気なしに表示されたページを見てみる。曖昧な表現が理解できない、スケジュール管理ができない、適切な報連相ができない……などなど、発達障害の特性を持った人の特徴が、ことごとく私に当てはまるではないか。

まさか私が?
いや、でも、もしかしたら……。

このときの仕事での失敗をきっかけに、自分には発達障害の傾向があるのではないかという疑念を抱きはじめた。

そしてある日、Kindleのセール本をチェックしているときに発達障害について書かれた書籍をたまたま見つけてしまった。なんとなく気になって購入して読んでみた。疑念は確信に変わった。

「これ、私のことだ!」

それ以前の私にはまだ発達障害の知識すらなく、「発達障害? なにそれ?」みたいな感じだった。
「確かに私にもそれに近い傾向はあるかもしれない。でも私は障害なんかじゃないよね〜」なんて、お気楽に構えていた。

あのときの失敗は、私が持っている発達障害の特性がことごとく表面化したものだったのだ。

あぁ、これだ。これだったのか。
すごく腑に落ちた。
これですべての辻褄が合った。


やっと検査を受けるもグレー判定

在宅勤務開始から1年が経った2021年春、新しい顧客先での仕事がスタートした。2名体制で交替での勤務。
一日でこなすべきタスクが信じられないほど多い職場で、息つく暇もないほど一日中仕事に追われていた。そのため、マルチタスクをやりすぎて頭がおかしくなっていた。自分にまったく合わない業務内容で本当にしんどかったが、仲間と協力して4ヶ月間なんとかやりきった。

しかし、この業務で溜まりすぎた疲れとストレスのせいで仕事を続けるのがつらくなったため、顧客先との契約終了のタイミングで上司に相談。ちょうど夏季休暇の時期だったのでそれを含めて半月ほど会社を休ませてもらった。

その休み期間中に、QEEG検査(定量的脳波検査)を受けた。
それにより中等度のASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)であることが判明。
しかしこの時点では、仕事ができているからという安易な理由で「グレーゾーン」と診断された。ここのクリニックでは、WAIS-Ⅳ(ウェクスラー成人知能検査)も実施しているが、発達障害の診断には用いていないということで、これ以上の詳細な検査はできなかった。

グレーゾーンといえども、自分に診断名がついたことで少し安心できた。
診断書を出してもらったものの、休職を申し出るわけでもないのに診断書を出すのもどうかなぁと思い、会社への提出はせずにおいた。
休みが明けて、上司とチームメイトの二人にだけ口頭でカミングアウトした。


ついにパンクしてしまった私の脳

その後も仲間のフォローを受けながら仕事を続けていたが、2022年の春くらいから業務が急激に忙しくなってきて、仕事や日々の生活に支障が出てくるようになった。

仕事の量が増えるにつれ、残業も増えていく。ゆっくり食事をとる余裕はなくなり、睡眠時間はだんだん削られていく。家にいても仕事しかしていないような状態で、家の用事をこなすこともままならなくなった。
だけど、こんなにやってるのに全然こなせない。やってもやっても仕事が減らない。そんな状況なのにさらに仕事は増やされていく。
でも、この職場は異常なくらい仕事が多く、いつもみんな忙しくしている。というか、みんなは私よりもっとやっている。だから私だけ弱音を吐くわけにはいかない。

状況的に、しんどくてもしんどいと言いづらかった。
それに、私はどうも自分のキャパが把握できないようで、ついついキャパを超えて頑張りすぎてしまうところがある。しかも、自分がどれくらいしんどいのか自分ではあまりわかっていないから厄介だ。だから、なかなか自分から相談しようとしない。相談しようと思いたったころにはすでに状態が悪化していることが多い。

完全にオーバーワーク状態だった。それに加えて、一度に複数のタスクをこなそうとして過度なマルチタスクをやり続けたことにより脳が疲弊し、だんだん仕事をするのがつらくなっていった。こなすべきタスクがいっぱいになると頭がパンクして混乱してしまう。
そしてついに、仕事だけでなく日常生活にも支障が出るようになっていた。突然泣き出したり、大声で喚いたり。就寝時の歯ぎしりや夜驚症(睡眠時驚愕症)もひどくなって睡眠の質も落ちていく。自分の感情すらコントロールすることが難しくなっていた。

もう限界だ。
仕事を辞めたい。

そう思った私は、誰に相談するでもなくメンタルクリニックを受診することにした。
そのときの私は、こういう手段をとることしかできなかった。

担当医師は、私の話を聞いてすぐに休職を勧めてくれた。
少し拍子抜けしたと同時に安堵した私。

「しんどかったら休んでいいんだ。もう頑張らなくていいんだ」

すーっと胸のつかえがとれるような。頭のなかのモヤモヤした霧が晴れるような。そんな気分だった。心と体が、ちょっぴり軽くなった。

かといって、明日から休職します、というわけにはいかない。私は多量の業務を抱えていた。やりかけのタスクも、私しか把握していない業務も多数ある。本当はまともに仕事ができるような状態ではなかったのだが、会社に休職したい旨を申し出てからしばらくの間、それこそ必死の思いで引き継ぎをした。

2022年夏。適応障害により6年勤めた職場を休職することになった。


発達障害専門クリニックで精密検査を受ける

休職に入ってすぐに、発達障害の専門クリニックを受診。
もっと早く受診すべきだった。しかし、このクリニックに通うには会社を休む必要があったため渋っていたのだ。会社を休んで病院に行くくらい、なんてことないのに。そんな思考ができなくなるほど私は仕事に縛られていたのだ。病んでいたんだ。

QEEG検査を受けたときは「仕事ができているからグレーゾーン」と診断された。それなら、仕事ができなくなったいまなら正式に「発達障害」と診断されるのではないか。
本当にグレーゾーンなのか、そうでないのか。いや、グレーゾーンであるはずがない。自分ではそう確信があった。それをハッキリさせたくて、精密な検査を受けることにした。

初診から検査を受けて結果が出るまで、7回ほど通院して約4ヶ月かかった。
通い始めたころはあまりに状態が悪かったため、すぐに検査を受けることができずに少し余計に時間がかかってしまった。
医師の診察、スクリーニング検査、WAIS-Ⅳ、育成歴の聞き取り、といった多くの検査を受けた。母子手帳と通信表も見てもらい、しっかり時間をかけて診断してもらった。


ついに下りた、確定診断

そして、ついに確定診断が下りた。

診断名は、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如多動症)。
グレーゾーンではなく、発達障害であることがこれで確定した。
やっぱり間違いなかった。

WAIS-Ⅳの結果はそれほど悪くはなかった。全般的な知的発達水準は平均。つまり、IQは100くらいということになる。言語理解(VCI)だけが飛び抜けており、知覚推理(PRI)・ワーキングメモリー(WMI)・処理速度(PSI)は平均以下。
語彙の知識が豊富であること、言語で表現することが得意であることが、そのまま検査結果にあらわれていた。私は、それだけを武器に他の苦手をカバーしながらこれまで戦ってきたのだ。

医師の話では、日常生活の中でコミュニケーションをとるときに人間がいちばん使うのが言語理解のところなので、これが得意な人は「できる人」だと周りに思われやすいんだそうだ。ギャップのある人の大変さはそのあたりに出やすい。なので、ストレスを感じやすくなる。とのことだった。なるほど、まったくそのとおりだ。

はぁ〜、長かったぁ。
めっちゃしんどかったぁ。

答え合わせがやっと終わって、気分は爽快だった。

ここまでひとりでやってきた自分を褒めてあげたくなった。
だけどこれからは、「無理しない」「我慢しない」「頑張らない」。
私を守るために、私は自分とそんな約束を交わした。

それじゃあ次は、障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)の申請をして、受けられる支援を受けようかな。
それから、自分の得意分野である言語表現を生かした仕事がしたいな。自分の知識や経験してきたことを発信して、私と同じような生きづらさや困りごとを抱えている人たちの役に立ちたい。

自分で言うのもなんだが、根が明るくていつも笑顔、とっても前向きな性格の私。なので、一見マイナスに思えるようなことでも絶対にプラスにしてやろうと思って生きている。
「転んでもタダでは起きない!」が私のモットーだ。

アスペルガーであることは、まぎれもなく私のアイデンティティー。
決して「弱点」ではなく、私にとっては「強み」ともいえる。いまでは誇らしくさえ思える。
せっかくアスペルガーとして生まれたのなら、アスペルガーらしく。
楽しく強く逞しく生きてやる!!!


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ソラノカナタ⭐️言葉をあやつるアーティスト
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