男と女の騎士道と恋愛(男の騎士道と女の恋愛ではない)
※今回は過去Noteの添付をたくさんした。見づらくなってたら申し訳ない。長くなりすぎるため、さらに知りたい人はこちらから〜とするしかなく。
「フランスのマリー」(1160年頃~1215年頃)は、フランス初の女性詩人。本名は不明。
詩人といっても。作品の性質は、短編物語集に近かった。レイ(詩)は100行だったり1000行だったりした。
恋愛ストーリーのいくつかのマリーのレイは、韻を踏んだ対句のある音節行で、書かれている。
愛から生じる、ポジティブな行動とネガティブな行動が、交互に表現されている。そのため、奇数のレイはハッピー・エンディング、偶数のレイはバッド・エンディングになる傾向が見られる。
中世のヨーロッパは封建社会だった。君主の権力とキリスト教の権威という、2つの大きな力。
マリー以前のヨーロッパの文学では、もっぱら、男性の軍事的栄光が描かれていた。キリスト教的なモチーフも、多分に含まれていた。
マリーの文学でも、探求や冒険の要素は維持されたが、マリーは、宮廷内にあった恋愛に焦点を当てた。
内なる感情や世俗的な愛を公に表現することは、重要とされていなかった。彼女の絶大な人気が、その風向きを変えた。
「公に」と書いたのは、個人的な書簡(手紙)なら、情熱的なやり取りも見られたから。本当は萌えていたんだね。人間みがあってよき。
マリーの物語詩集の中には、イタチ・シカ・ナイチンゲールなどの動物が、意味をもって登場する。動物たちが人間に生き方を教えてくれるのだ。
多言語を扱えたマリーは、イソップ寓話の翻訳者でもあった。おそらく、そこから影響を受けたものと思われる。
イソップ童話:『ウサギとカメ』『アリとキリギリス』『田舎のネズミと町のネズミ』など
ヘロドトスの『歴史』によると、作者は、紀元前6世紀のイソップという奴隷身分の人物。だが、確証はない。
イソップ寓話には、シュメールやアッカドにまでさかのぼる話、古いインドの話と、明らかに共通点が見られる。しかし、どちらが影響元なのかは判明していない。
当時のヨーロッパの作家の中には、〇〇という原作を翻訳したものと明示せず、盗作もどきの行為をする者がいた。
マリーはというと、翻訳対象はもちろんのこと、参考にしたものも誠実に提示する人だった。
そして、ここがマリーの非常におもしろい点なのだが。
彼女が参考にしたと主張した原作(複数)が、どうしたことか、全く見当たらないのだ。インスピレーションを得たというのはあっても、実質的に、マリーのオリジナルだった可能性が高い。一部の学者らは、彼女が、架空の原作をでっちあげた可能性すらあると言う。
本当だとしたら。なんて変な人なんだマリー。
盗作をして、自らの手柄にしようとする人間。これは理解できる。「私これ、〇〇っていう本をパクって書いたんだよね〜」(本当はパクってない。〇〇なんて存在さえしない)?
イカれた女だ(好き)。
マリーは、ヨーロッパの文学に大きな影響を与えた。:アーサー王伝説の発展に貢献。ジェフリー・チョーサーに影響。騎士道文学の誕生に関与。
アーサー王に関連した物語の集合体が、「アーサー王伝説」だ。魔剣エクスカリバー・円卓の騎士・騎士ラーンスロットの冒険など。
チョーサーの歴史的な重要性に触れた回。イングランドとフランスの複雑な関係も。
マリーが、ラテン語ではなくフランス語で(ブルターニュなどの現地の言葉で)書いたのは、人々が読める確率を上げるためだったと、推測されている。
詳しくはストーリーを書き出さないが、下層階級の人々に対するマリーの思いやりは、『聖パトリックの煉獄の伝説』によく表れている。
マリーの作品には、下層階級のキャラクターがたくさん登場した。しかも、貴族階級の人たちよりも立派な存在として。
にもかかわらず。マリーの作品は、貴族階級でも、大変人気があった。
以下、理由を解説していく。
宮廷恋愛文学と騎士道文学
宮廷恋愛は、独身騎士と既婚女性の恋愛を意味した。
中世文学の一部のライターたちは、貴族から報酬を得て、作品を書いていた。依頼者が女性だった場合、そのような話がリクエストされたのだ。
不倫だ不道徳だと蔑むのは簡単。リアルにイメージしてみよう。
現代のように外で働けたわけでもなく、身分の高い人なら家事もしなかった。子育てをするにも乳母がいただろう。YouTubeもネトフリもない。要するに、暇だった。
このレベルの暇(役割がない状態)は、もはや苦痛。
過酷な労働や飢えに苦しまないからと言って、イコール、それが幸福であるとは限らない。平和に感謝するのは大前提として……
貴族が過剰な着飾りをしたことなども、究極的には全て、彼ら彼女らが暇だったからだ。特に女性。基本的には、戦や政にも関われない。
この常軌を逸した姿の解説は、この回で読んでほしい。
騎士道文学は、実は、宮廷恋愛文学と半分くらい同じものだった。
騎士の武勲や恋愛を題材にしたものだったからだ。(先ほど説明したように、女性からのリクエストで書かれたりしていたから)
騎士道:中世ヨーロッパの騎士階級に浸透していた、情緒や風習の総称。騎士たる者が従うべき規範。
命をはって仕える相手に、恋心を抱くようになる従者もいた。心理的にじゅうぶんあり得る。優秀な家臣をつなぎとめたいがために、主君が従者に、妻を差し出していたパターンもあった。
物語の中だけでなく、本当に関連のある2つだったのだ。
複数の作家が、宮廷恋愛と騎士道のミックス的なものを提供していた中で。マリーの作品は、格段に人気があった。
短編『ヨネック』にて。
ある女性が、老領主にみそめられ、城へ連れてこられた。領主は、彼女が浮気をするのではないかと恐れ、高い塔に閉じこめた。
時々飛んでくる1羽のタカだけが、彼女の癒しに。ある日、タカは騎士に姿を変えた。(ここにブーイングしないように。笑)
2人は恋仲になった。鷹ナイトは救ってくれようとしたが、実現せず。殺されてしまった。
彼女は、結局、自力で塔から脱出した。
自由と幸福が待っていたはずが、世の中は厳しいものだった。保護も生活の糧も見つからなかった。元恋人の仇討ちに精を出してしまう。
(まぁ、闇堕ちみたいな)
マリーは、結婚をろう獄・不倫恋愛を自由と表現した。現代的な価値観で、ワガママであるとか・ふしだらであるとかとらえるのは、違かろう。
マリーの時代、これは、貴族の権力と教会の権威に挑戦したことと同義であった。
他にも注目すべきは、女性が、自分自身を救うことを余儀なくされていた表現である。
こういったマリーの作品が、熱狂的な支持を得ていたのだ。マリーの読者だった女性たちの状況が、そういうものであったということに、他ならない。
ところで。鷹ナイトやワシ騎士は実在する。
レディー・ファーストについて。
厳密には、レディーズ・ファーストだが。
・女性を盾や毒見役にしていただけ
・女性を汚物よけにしていただけ
・地位を狙って女性に媚びていただけ
こういう話をどこかで聞きかじり、そこで満足して終わってしまう人がいる。そうであってほしいと思う情報に出会った時に、それ以上知ろうとしなくなる人は、一定数存在する。自分が見たいように世界を見る。人にはそういう癖がある。
男性(重要だった人物)の身を守るためーーそういう側面もあった。だが、もう少し掘り下げてみよう。
「地位を狙って」
次男や三男は、家督を継げる可能性が低い。主君に仕えて、あわよくば、高い身分になりたいと願う者は少なくなかった。自然な願望だろう。裕福な未亡人に近づき、後釜に座るという手段を用いた男性も、複数いた。
ロードは統治者や主権者。神のことも表す。レディーはその女性版。ロードの妻もレディー。元々はこういう意味あい。
イングランドの地主貴族の中で、最も低い階級だったのは、ジェントリ。エスクァイア(紳士の上でナイトの下)の下で、ヨーマン(耕作する人や使用人)のずっと上。
え?なんて??と言いたくなるだろう。人間を階級でわけ隔てることに加えて、この細かさ。読んでいて嫌になってくるだろう。
要するに、ジェントリよりも、ロードやレディーを優先させるということ。極めて、階級社会的なものだったのだ。
これで、Ladies and Gentlemen の本来の意味もわかるだろう。
昔はそんなだったんだな、と思ったあなたへ。
全体が長くなってしまうが、ついでだから、まだ書こう。
「大金を稼ぐスターでも、喋ったとたん、下層階級者であることがわかる」これは、サッカー選手のベッカム氏が言われたことである。
“ 成り上がり ” だと。アメリカとは大違い。
ひどい話だと思うだろうか。
事実、イングランドは、社会階級によって発音が違う。ざっくり言うと、Hello 上流階級は「ヘロウ」労働者階級は「アロー」。
以前の彼は、強いコックニー・アクセントだった。ワーキング・クラスが住む下町の、典型的なアクセントだった。
ところが。現在のベッカム氏と彼の妻は、まるで別人のようなアクセントで、話している。自ら「階級が上がった」ことを意識し、変えたのだろう。本人たちも、そういう価値観をもっているということ。
キャサリン妃は、ロイヤル・ファミリーとなり、庶民的な発音から RP(Received Pronunciation)に変えた。
下層階級出のマーガレット・サッチャーは、オックスフォード大在学中に中上流階級の発音を身につけ、後に上流階級の発音も学んだ。これで、さまざまな階級から支持を集めたという。
「階級社会」のリアルさが伝わっただろうか。
マッカーサーに米国式を押しつけられたんだ! (怒) と言う人。言いたいことはわかるが。英国式だったらよかったか?
話を元に戻す。
騎士道物語の具体的な内容
騎士が見知らぬ土地を冒険し、住民を苦しめる敵(ドラゴンや巨人の場合も)を倒し、王に認められる。その過程で出会った女性を苦悩や危機から救う。そんな騎士に女性は惚れこむ。
概ね、こういった内容だった。
騎士道物語は、現代まで、ずっと愛され続けている。たとえば『スター・ウォーズ』。
『スター・ウォーズ』は、宇宙版アーサー王伝説なのだ。
ジョージ・ルーカス監督は、米国の神話学者ジョーゼフ・キャンベルに、影響を受けた。正しくは、影響を受けたどころではない。
ルーカス監督は、キャンベル先生の著作の大ファン。先生の教えを直接的に参考にして、映画を製作したのだ。
アーサー王シリーズ自体より、先生による解釈や解説に、感銘を受けたのだろう。英雄とは、どうして・どのように素晴らしいのかーー。
タイトルからはそう見えないが、関連回だ。
Order of the Round Table 円卓の騎士団。Order of the Jedi ジェダイの騎士団。どちらも Order 騎士団と称されている。
騎士団には掟がある。
円卓の誓い:乱暴しない。裏切らない。女性を大切にする。不当な争いはしない。
ジェダイの掟:力は防御と保護のために用いる。あらゆる生命を尊重する。銀河の善のために仕える。支配しない。自己の研鑽を積む。
ジェダイの評議会では、円形の模様のまわりに、評議員たちが座る。
エピソード4からはじまり、5・6と続き、1に戻る。それから2と3。物語の前日譚が語られる構成は、聖杯物語群(円卓の騎士たちが聖杯を求める)と同じ。
他にもたくさん。
アーサー王シリーズでもスター・ウォーズでも
・無名の若者が宿命の旅を経て一人前になる。
・父を知らない若者が活躍する。
・特別な力をもつ師がいる。後に師を失う。
・母との別れ、母親をおいていく。
・父子の戦いと師弟の戦いがある。
・謎の美少年/美青年の登場がある。
青年時代はもちろん、少年時代のアナキンにも、極めて美形の子役が起用されている。
それもそのはず。絶対に、「謎の美少年」を出さねばならなかったのだから 。(笑)
「宇宙の法則が私たちの中にある以上、外宇宙と内宇宙は同じなのだ」と、キャンベル先生は語る。
「外界から五感を経て、心にイメージが届き、それが神話になる。しかし。体の内界から想像力が目覚め、洞察力との融合によって、変容してからである」とも。
マスター・ヨーダは、まさにこのようなことを、ルークに諭していたと思う。
共通の知人であるノーベル賞受賞科学者を介して、監督が先生と初対面することができた時のこと(3作を世に出した後だった)。
監督は、先生本人に、受けた影響や参考にしたことを熱烈に語った。ところが、先生はまだ『スター・ウォーズ』を1作も見ていなかった。悲報。
数年後、監督の別荘か自宅で、一緒に観たという。ついに観てもらえたんだ。監督おめでとう。先生に「ピカソより良い」と褒められ、大喜び。
キャンベル先生の講演を聞いた一般の人も、「彼がスター・ウォーズの意味を教えてくれるまで、私は、この映画を土曜の朝の宇宙映画とみなしていた」とコメントしたらしい。
マリーの話で〆る。
学者らは、マリーは当時、かなりの批判を受けていたと推測している。
マリーの作品の中身は、「女性は男性よりも価値が低い」と言わんばかりの教会の教えに、沿っていなかったため。
以下、マリーが残した言葉の一部。
「閣下、自分の才能を無駄にしない私の言葉を聞いてください。他人の能力を妬む人は、その評判を傷つけるために、侮辱します。しかし、私は小言屋に負けません。諦めるつもりはありません」
現存するマリーの全ての作品に、彼女の時代には珍しい、慈愛の感覚が息づいている。
女性のつらさに心を寄せた内容から、彼女のビジョンを、プロト・フェミニズムということも可能であろう。けれど、私はそうは思わない。マリーの慈愛は、女性に限らず、さまざまな対象に向けられていたからだ。
彼女の正体については、わからないことだらけなのだが。彼女の優しさや強さに比べてしまえば、「正体」なんて、どうでもいいことかもしれない。
「彼女は一人で森から馬に乗って出てきた。17歳、冷たい3月の小雨の中、フランスから来たマリー」
ローレン・グロフの歴史小説『マトリックス』(ラテン語で母という意味)の冒頭だ。