未解決芸術は終わらせないといけないから
タイトルはこれのオマージュだが。この意気込みで書いていく。
露伴を気どって。Heaven’s Door!
「キャラクター・ヘッド」と呼ばれる胸像シリーズ。18世紀に活躍したドイツ人彫刻家、フランツ・クサーヴァー・メッサーシュミットが制作した。全69体。
しかめっ面をした男性。目を細め・眉をひそめ・鼻をすぼめている。日本人からしたら、梅干し食べたの?と茶化したくなるような表情だが。笑っていいようなものではないのだ。
メッサーシュミットは、おそらく、統合失調症でありクローン病でもあった。苦悩の多かったであろう人生の最後の13年間に、これらは制作された。
人間の頭部をいくつもつくることで、自分の心に侵入する霊を追いはらおうとしていたーー周囲の人間は、彼のことをこんなふうに語っていたらしいが。
結局のところ、作者が何を意図していたのかはわからない。なにせ、各作品にタイトルもつけなかったのだから。(今あるタイトルは全て、本人の死後に他の人たちがつけたもの)
関係あるかわからないが。当時、人相学なるものがとても流行っていた。
とりあげて書くほど、何か特別な話でもないではないか。そう思った人もいると思う。
それでは、シリーズの残りの作品を見てほしい。
「こんなもの」を69体もつくったのだ。一体、どんな精神状態か。私は、『うしおととら』のこのエピソードを思い出した。
一発目は短文だったが。次からは長いよ。
2世紀のグリコン神の石像。1962年に、ルーマニアの鉄道駅の下で発見された。
人間のような顔立ち・長く乱れた髪・ヘビ。パッと見でわかる情報はこのくらいか。
一説によると。この石像のコンセプト/グリコンへの信仰は、2世紀なかばに、ギリシャの「預言者」アレクサンダーによってもたらされた。
アレクサンダーという名のギリシャ人が、自らを「グリコンの預言者」と称し、ヘビの形をした操り人形をもち歩いていた。その人形の口は、馬の毛で開閉する仕組みで・二股の黒い舌がとび出るようになっていた。……不気味だね。
要するに。そのパペットがグリコン神の起源だと。
ここで。アスクレピオスという、治療の神を見てほしい。シンボルのヘビも見てほしい。
グリコン神は、新アスクレピオスのような位置づけで、崇拝されはじめた可能性がある。
アレクサンダーという個人が何の基盤もなしに、ヘビがよいのだなどと言い出しても。大流行などしなかっただろう。と、そういうことが言いたい。
いわゆるヘビ・カルトは、紀元前4世紀までにすでに知られていたし。それはマケドニアではじまったかもしれない。
人間が、ヘビの見た目に何かしらのシンボル性を見出してしまいがちなのは、なんとなく理解できる。
160年代後半に、その辺りで疫病が蔓延した時。「長い髪の神が疫病の雲をはらいのける」という呪文が流行った。この文言は、古代シリアの首都の碑文にも見つかっている。
対処に困る事態の一例としての、流行病。混沌にうち勝ち世界を制御したいという、人間の願望。また、普遍性があるのだろう。
キリストも。おおまかに言えば、治療をほどこしてくれる存在だ。
話が精神面におよぶことに対して、その境はあいまいであろう。例)ヒーリング。「ヒーリング」と聞いて、肉体の話/精神の話どちらかだけを思い浮かべる人は、少ないはずだ。
いつの時代だって、病に苦しむ人々にとって、それを治してくれる人は「神的」だろ。
グリコンの話を続ける。
ドナウ川とユーフラテス川の間の地域で発見された奉納物・小像・貨幣は、グリコンの信仰がその後百年ほど続いたことを証明している。
アレクサンダーは、この世を去った後も、宗教的な栄誉を受け続けたということだ。必然的に、預言者というようなあつかいになる。バトルに勝利などしていないため、「英雄」にはなり得ないしね。
マクロな話。彼が新しいカルトを確立するのに成功したことは、2世紀後半から3世紀にかけての宗教的態度の変化……つまり、伝統的な信仰から新しいカルトへの変化……の兆候の1つだったとも言える。そういう時代がくる、その土台となる、傾向。
紀元1世紀の中頃、イエスの死後に起こった弟子らの運動が、キリスト教の起源であるが。理論的発展を基礎づけたのは、パウロの書簡やヨハネによる福音書で。新約聖書の大枠は4世紀頃に確立された。
せっかくだから、キリスト教と治療の話をもう少しする。
ヒポクラテス派やアレクサンドリアの医師たちやガレノスは、技術と理論としての医学を発展させた。
医学と宗教の構造を、宗教の側から大きく変動させたのは、キリスト教だった。
4世紀末。ローマ帝国の国教となったキリスト教。修道院などの新しいモデルは、貧しく孤立した人々に対する慈善としての医療を生んだ。医療の最重要現場「病院」の原型である。
キリスト教は、後々、超自然の力を強調する方向をとっていったが。例)悪魔憑き。最初期のキリスト教は、超自然ではなく自然をあつかっていた。
次の話に移る。
「死」は、最も頻繁に表現されてきた芸術主題の1つだ。
デンマークの川で死にゆくオフィーリアは、美しい。
エヴリンさんという女性が、エンパイア・ステート・ビルの86階展望台から飛び降り自殺をした。
その現場をとらえた写真。Time誌が「最も美しい自殺」と述べた。
『九相図』。屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を、九段階にわけて描いた仏教絵画だ。
腐敗の9つの段階が表すのは、人間の無常である。生命の儚い性質である。
人の夢と書いて、はかない。この漢字を絵にしたようなものだなと思った。グロ寄りなだけで。
5枚だけ貼った。
小林永濯の九相図は、遊女バージョンだ。
3枚だけ貼った。
ある種の春画だった説もあるが。そうでなくとも。女ばかりなのは、正直私はなんだかわかる。より「ものの哀れ」感がするのは、女の方じゃないだろうか。「移ろい」と相性がいいのも女の方でしょう。
現代ではそんなことはないとか言わないで、主旨をとらえてほしい。女の持つ時間は男よりも短い。にもかかわらず。待つ時間はその逆になりがち。それはそれで、エモいけどね……。
瞬間を「とき」と歌っている。健気だ。
彼の作品は素晴らしい。
『桃太郎』も小林永濯の手にかかれば、こうだ。
戦ったのは動物面をつけた人間だと。センスありまくり。鬼ヶ島を異国とみなして描いたらしい。だから、レンガづくりの城壁とアーチ状の城門なのか!2度言う。センスありまくり。長崎をイメージして、描いたのだろう。
細かく美しいオリエンタルな絵が、手触りのよく手間のかかった紙(ちりめん)に印刷されていたこと。日本をおとずれた人たちにとって、エキゾティック = 外国風の極みだったろう。版画だから量産できるから。どうぞたくさんお持ち帰りになられて〜。
「私は死を被るものであり、死を超えたものではない」
死に慣れることで、もはや恐れないようにする。九相図にはそんな存在意義もあったのだろう。
ある研究により。死に焦点をあてた瞑想は、私たち全員にとって、健康的であることがわかっている。
逃れられないもののことを「死と税金」とは、よく言うが。『プリズン・ブレイク』では、そこに「点呼」が追加されていた。最近、Amazonプライムビデオで観たんだ。ふと、まじめに考えてしまった。
環境や状況が変われば。「逃れられないもの」も違ってくる。
人生にーー順当にか予期せずにかーーやってくる逃れられない何かを、臨機応変にうまく受け流していかねばならない。
『インセプション』のモルには、それが難しかった。
こちらは『インターステラー』。
いきなり、ノーラン監督作品をはさんだが。後で話をつなげる。
腐敗の段階に関する最初の言及は、中国の『大智度論』(405年)で見つかる。
大智度とは、摩訶般若波羅蜜の意訳である。つまり、『大智度論』とは『摩訶般若波羅蜜』についての論」である。
智は智慧。度は渡と同じで、彼岸に渡ること。
現実と幻想を正しく分別する智慧がなければ。無明と混乱の中で、自分や他者にとって何が有益かを推測することが、困難になりがちだと。
般若波羅蜜/般若波羅蜜多(智慧の完成)。悲。世俗菩提心(一切衆生を苦しみから解放するために、仏陀の境地を目指す)。勝義菩提心(知的に理解することが不可能な、言葉を超えた境地)。
これらから得られる正しい理解がなければ、仏教のメソッドを盲目的に実践してしまうことになる。自分が何を目指しているのか、それを目指す理由もわからずに。
私はこれらを、主に、白人の学者から学んだ。私は、外国人から仏教を学ぶことが好きだった。
今までに、以下のような話を何度も書いている。自分をできるだけ俯瞰して見て。あまり本懐ではないのだが、言語化というやつをしてみると。私は、アウトサイダーによる考察的なものが好きなのだろう。インサイダーには見えないものも見える気がするからだ。
「智は智慧。度は渡と同じで、彼岸に渡ること」ノーラン監督の思考は、これのさらに先にある。(主観)
次の話をする。
聖クリストファーのイコン。(イコン:主に正教会が宗教的な絵をこう呼ぶ)
犬の頭をもつ聖人戦士。カトリックで最も人気のある聖人の1人だ。
実は、これも聖クリストファーなのだ。
カナン人の巨人で、人々を背負って川を渡る。ある日背負った子どもが、キリストだった。キリストを運ぶ人 → クリストフォロス/クリストファーと名づけられた。聖書には、川を渡る重要な話は他にもあるが。
聖クリストファーの起源に関する研究も、また、お決まりことを言う。キリスト教の伝統は、基本的に、誤解・混乱・空想的な誇張として発展してきたと。
学者らは、ものごとには必ず一貫した意味と類推があるとでも、思っているのだろうか。何かがどれほど直感的で深遠であるかについては、ほとんど盲目である、その代償にでも。
犬の頭をもつ者が見られるのは、聖クリストファーだけではない。
ペンテコステ(聖霊降臨。新約聖書にあるエピソードの1つ)に出席した、最も遠い種族とみなされていたり。
時には、キリストをおびやかす暴力的な敵であったりする。
犬の頭をもつ男・よそ者・野蛮人は、「怪物」は、世界の周縁に住んでいる。ハデスの門にいるケルベロスのように。
危険ではあるが。緩衝材としても機能し得る。
たとえば。ヤンキー全員しねよみたいなこと言う人には、一生この意味がわからないと思う。
また、次の話だ。
『モナ・リザ』には、ダ・ヴィンチの工房の職員が描いたと思われる、別バージョンがある。
2つの作品は、おそらく、同時進行で制作されていた。
赤外線反射像を比較すると。下に隠れた同一のディテールが見えるのだそう。これは、並行した作業プロセスを示していると。
なるほど。下書きや工程まで似てるのか。それはたしかに、完成後にまねしたのではないね。
弟子の1人が描いたと思われる方には、下書きに、多くのちゅうちょと試行錯誤が見られ。
弟子が(先に)描いたものを見て、師匠がどうするか決めたであろう部分が、風景であると。ダ・ヴィンチの方では、風景は著しく簡略化されている。
(「ヴィンチ村出身」という意味で、名字ではないと言うが。本人が名字をそう書いたりもしていたのだから、いいじゃないかと思う。私は「ダ・ヴィンチ」で書くよ。宇多田ヒカルをヒカルと呼称していた友人がいた。誰か伝わらないし、距離感が友達。笑)
作者はサライだと考えられている。サライ(あだ名なのだが)とはどんな人だったのか。
「ジャコモは、1490年7月22日の聖マグダラのマリアの日に、私と一緒に暮らすようになった 」という記述が残っている。
ジャコモはミラノ近郊出身の少年で。10才で彼の生徒になった。絵を学ぶだけではなかった。家事をして、食費や生活費を世話になっていた。
このようなことは、当時、広く行われていことだった。ーーなどと聞いても。一部のタイプは、児童労働や搾取といったキーワードを投げかけてきそう。以下を読んでほしい。
ダ・ヴィンチがサライの父へ送った手紙「1日も経たない内に、彼は、盗みと嘘という主な才能を発揮した。2日目には、彼のためにシャツ2枚・パンツ1枚・ジャケット1枚を仕立てるように注文したのだが。彼は、これらの代金を支払うためにためていたお金を、私の財布から盗んだ」
ダ・ヴィンチは、呆れはしても激怒したりはしていなかった。なぜ、わかるかと言うと。さんざんな第一印象にもかかわらず、重要なゲストらとの夕食会に、彼も同席させていたからだ。
ジャコモ、洗い物はそのくらいでいいから。料理が冷めない内に、君も一緒に食べよう。さぁ、おいで。
詳細は私の想像だが。そんなふうにしたのに。
「ジャコモは、2人のように夕食をとり、4人のように騒ぎを起こした。デカンタ3つを壊した」
先ほどの手紙の続きだ。思わず、吹いてしまう。ダ・ヴィンチのジョークの才能もあって。
いたずらっ子(ドロボーだからシャレにならないのだが)で食いしん坊で暴れん坊だったのは、間違いない。
手くせの悪さはなかなか直らず。やがて、サライというあだ名がついた。トスカーナの方言で、小鬼の意味だ。
“Learning never exhausts the mind.”
“Just as food eaten without appetite is a tedious nourishment, so does study without zeal damage the memory by not assimilating what it absorbs.”
Leonardo da Vinci
「学びは決して心を疲弊させない」
「食欲のない時に食べる食べ物が退屈な栄養であるように、熱意のない勉強は吸収したものを同化させることができず、記憶にダメージを与える」
レオナルド・ダ・ヴィンチ
彼の興味対象は、約50の分野におよんだ。好奇心をそそられなかった分野を数えた方が、早いくらいかもしれない。
ラテン語だけでなくイタリア語(母国語)にも、文法の誤りとスペル・ミスが多いらしい。私が自分で読んだのではないため、わからないが。だとして、人には得手不得手がある。
あらゆる面で傑出していた天才は、さらに、愛する人に対して大変寛容で忍耐強い人だったのだ。
ダ・ヴィンチが彼を排除できなかった理由として、サライが美しかったからというのは、否めない。芸術家だもんな。美意識が高かったのだろう。
しかし、明らかに過保護である。占いに通う費用まで出していた。ピンク色のストッキングをねだられても買い与えていた。使用人の6ヶ月分の給料に相当する衣服を買ってあげていた。
残念ながら。サライの肖像画は残っていない。『最後の晩餐』のフィリポ/ピリポが似ている、という説はあるが。
これらも、サライに似ているのではないかと言われている。
2人は、性的関係だったのだろうか。
15世紀のフィレンツェでは、男性同士の性行為が広く行われていたという。ドイツ語で同性愛者を表す俗語が Florenzer(フィレンツェ人)になったというのだから、その規模感を想像できる。
何事も。増えすぎれば、制御が入ったりするものだ。統治者たちは、この流行を抑制するための措置を講じはじめた。火あぶりを含む(さすがに、ごく少数だった)厳しい刑罰など。ほとんどの場合、罰金刑だった。
罰せられることを恐れて、と言うよりも。記録から、ダ・ヴィンチはあらゆる性的関係を拒否していたーーと解釈できる面もあるという。2回の匿名告発で有罪判決にならなかったこと。生涯独身であったこと。など。(「結婚は、ウナギを引き出そうとヘビの入った袋に手を入れるようなもの」と述べていたため、別の理由かもしれないが。笑)
その見方が正しければ、だが。彼の若い弟子らに対する愛は、プラトニックなものであったはずだ。
この人はこの人で、いきすぎなのだが。→ フロイト「出産行為とそれに関する全てのことは、あまりにも不快なので。美しい顔と官能的な傾向がなければ、人々はすぐに死滅するだろう」「知的な情熱は官能性にとって代わる。みだらな欲望をおさえない者は、自分を獣と同じレベルにおく」現代なら、大炎上間違いなしの発言だ。
約30年ともにすごして。2人は別れた。
何があったのか。サライがダ・ヴィンチのもとを去ったということ以外、謎に包まれている。
晩年のダ・ヴィンチを支えた(亡くなるまでかいがいしく世話をした)のは、ミラノの貴族の息子、フランチェスコ・メルツィだった。
礼儀正しく・優れた教育を受け・絵を描くのが好きで。ダ・ヴィンチにあこがれていた青年。まさに、サライとは正反対の人物だった。
ダ・ヴィンチ「メルツィの笑顔は私に世界の全てを忘れさせてくれる」
しかし。ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』の報酬で購入した土地を譲った相手は、結局、サライだった。
“Human subtlety will never devise an invention more beautiful, more simple or more direct than does nature because in her inventions nothing is lacking, and nothing is superfluous.” Leonardo da Vinci
「人間の繊細さでは、自然ほど美しく単純で直接的な発明は、絶対にできない。自然の発明には、欠けているものも余分なものも、一切ない のだから」レオナルド・ダ・ヴィンチ
みつをも言ってた。人間だものって。茶化してごめん。大事な話だよな。
ダ・ヴィンチは、きっと、したいようにしたのだ。それでもサライにあげたいと思ってしまう自分の感情に、素直に従ったのだ。
仏語は英語のようにわからないため、私が暗に意味された何かをとらえていない可能性はあるが。「あなたが永遠に去る友人を愛するように、私を愛して」と歌詞にある。メルツィだなと思って。
まぁ、どんな美しいものも含め、なんだって金で買われちゃうんだけどさ……。
本当に、どういう神経をしているのだろう。買えるからと言って、買うか。私なら、誓って、0円でも我が物にしようなどと思わない。縁もゆかりもない人間が、所有すべきものではない。そういうものってあるでしょう。
この美しさを見て。時が保存されている。
最後。
『炎を背にした男』イングランドの肖像ミニチュア画家、アイザック・オリバーによる、1610年頃の作品。
ていねいに整えられたヒゲ。左耳に金のピアス。よく見ると、まつ毛も描かれている。
炎に包まれても動揺していないように見える、その表情。
上に書かれているのはモットーか。Alget, qui non ardet.「燃えない者は冷たくなる」
同タイトルの別作品がある。イングランドの金銀細工師でミニアチュール作家、ニコラス・ヒリアードによる作品(だと長年考えられていた)。1600年頃。
この人も炎に囲まれている。誰か愛する人のミニチュアが入っていると思われる、ロケット・ペンダントを身につけて。
胸元のはだけたシャツ。
お察しのとおり。私は今、男性2人による同性愛をにおわせている。
ミニチュア作品が好まれた時期は、宮廷恋愛や騎士道ロマンスが好まれた時期と、一致している。
エリザベス朝およびジェームズ朝のエリートの間で、友人どおしや恋人どおしの愛情の証として、頻繁に交換されていたのだ。
ペトラルカの愛の叙情詩や、シェイクスピアのソネットの時代でもある。詩には隠された意味があった。(別に、現代もそうだけど)
ジョージ・プットナムが『The Arte of English Poesie』(1589年)で説明したとおりだ。
「簡潔で感傷的な命題は、宮廷人が女性に贈ったり制服として着たりするのに使われる、紋章やその他の恋愛の銘文の全てに見られるもので。何らかの解釈によって解明されるまで、通常は、機知に富んだ文章や秘密の考え2~3語しか含まない。そのため、視覚的表現の図がそえられる。その図の繊細さと言葉はぴったりと対応しており、目も耳や心と同様に再現される。ギリシャ人はこれを Emblema(エンブレムのこと)と呼ぶが。我々にとって図は、男性が金の文字で書き、愛人に記念品として送るようなものである」
ペンダントの中、裏面には、小さなトランプが貼ってあったりしたそうだ。ハートの〇〇で I Love You とかか。かわいいね。エリザベス朝の人たちは、たしかに、隠された意味を好んだようだ。
これら情報に則り、今回とりあげたミニチュア作品も恋愛の贈り物だと理解するならば。愛の炎によって燃えているが傷ついてはいない、ということになる。
サラマンダーだ。
『愛は火によって生きる』
サラマンダーは火の中で無傷で生き
恋人は愛の喜びの火の中に身を置き
愛はそれによって生きる糧を作り
他人が破壊した命を恋人に与える
オットー・ファン・フェーン『Amorum Emblemata』(1608年)より。
オリバーとヒリアードのBLでキマリ!じゃん。
ところが、そうではないらしい。
ヒリアードは関係なかった。どちらもオリバーの作品だった。と、後々考え直されたのだ。
見知らぬ男性どおしが勝手にカップリングされてたの草。
炎の男(最初に貼った赤い炎の方)のモデルは、ヴァージニアへの初期植民者の1人、ウィリアム・ストレイチーだった可能性が示唆された。
英国に帰国してからストレイチーが出版した、ヴァージニア植民地の法律を記したパンフレット『ヴァージニア・ブリタニア植民地のために。神、道徳、軍法などの法律』の表紙に、彼のモットーが書かれていた。
Alget, qui non ardet. 『炎を背にした男』に書かれている文言と、同じである。
それぞれの年代も矛盾しない。
このことから、彼が自分のミニチュア肖像をオリバーに依頼したのだろうと、新たに推測されたのだ。
ストレイチーには紋章があった。見てほしい。炎みたいじゃない?背景が炎じゃない?
こちらは、彼の航海の様子を描いたもの。赤い獅子に2本の尾?これも炎に見えなくもない。
もしも、ストレイチーと炎の男がイコールであるのなら。
炎は、ロマンス由来のものではなく。過酷な状況に立ち向かう、開拓者 兼 プロテスタント宣教師の熱意によるものだ。
ならば、話はぜんぜん違ってくる。
嵐に流されたシー・ベンチャー号は、水漏れを起こした。乗組員は、昼夜を問わず必死に、修理にとりくんだ。天候が悪く、北極点を観察することもできなかった。そんな中、船員たちは火の幻影に驚いたという。「きらめく炎がメイン・マストの半分の高さまで上がった」。
船首、船底、甲板、全ての船室で
驚異的な炎を燃やした
時には分裂し、多くの場所で燃えた
火災が起きたのではなかった。そういう幻覚を見たのか。めげずにがんばるという比喩か。
ジェームズ・タウン(ヴァージニア植民地のメインの場所)では、大きな飢餓があった。集落は壊滅状態に。
13植民地の中で最初の植民地だ。成立させるのは、並大抵のことではなかった。
時間が経ってから、そこをどうにか立て直したことに対して。本国から入植者らに、賞賛と激励がおくられた。
ロンドンとストレイチー(書記官になっていた)の、手紙のやりとりの一部。「……私の中で燃えているだけではなく、誰の目にも見えるように燃えている情熱をご存知なら……」
どうやら、炎も愛もサラマンダーも、ラブ・ロマンスのそれではかったようだ。
閃光がまたたく映像がぴったりなMVで〆る。
過去回。今回ほどのボリュームはないけれど。軽く読みたい人もいるもんね。こういう話が好きな人は読んでみて。