ダーウィンの苦悩とインフルエンサーの苦悩
何故ずとまよ?最後まで読めばわかる。
マルクスは、キリスト教のことを「人民のアヘン」と呼んでいた。
「宗教は悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」たとえば、25才の時に書いた論文内では、このように表現していた。
宗教を完全否定していたわけではないのは、感じとれる。宗教は、人々を不幸な現実社会を改革することから遠ざける。彼は、このように言いたかったようだ。
国王権力と支えあう関係になり、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従をとく。歴史の中で/状況により、宗教がそのような特徴を色濃くすることは、たしかにある。
宗教の歴史は、ぜんぜん、ピュアー・ホワイトではない。
また、彼がアヘンという言葉を使ったのも、アヘン戦争が起こった頃だったからだ。
マルクスは、『種の起源』を賞賛した。
マルクスからエンゲルスへの手紙「ダーウィンの本には、自然史における我々の見解の基礎が含まれている」。
マルクスからフェルディナント・ラッサールへの手紙「ダーウィンの本は非常に重要であり、歴史における階級闘争の自然科学の基礎として役立つ」。
地球上の生物と同じで、人間社会というものも、歴史的な変化過程の結果なんだな。彼は、ダーウィンの著書に、このような感銘の受け方をしたのだと思う。
それから約5年後の、マルクスからエンゲルスへの手紙で、彼の見解に変化が見られる。
「それは社会的ヴィクトリア朝モデルを自然に適用していたため、自然個体選択による生物進化に関するダーウィンの理論を直接攻撃したが。これはマルサス的資本主義であり、私が擁護した階級闘争に反するものだった。私は社会に対して行動し、そして今も行動している」
マルクスという人を考える時、後に言い出したこの内容の方が、よほどしっくりくる。
マルサス主義とは。
人口は等比数列的に増えるが、生活資源は等差数列的にしか増えない。その結果起こる貧困は、一種の人口抑制要因として働く自然現象であって、資本主義経済の欠陥によるものではない。1つの対策として、結婚年齢の延期という道徳的抑制を推奨する。
とりあえず、Wiki的な解説を書いた。
アダム・スミス:市場経済が発展すれば、下層階級にまで富はいきわたる。
スミスは「競争」というものを深堀りして考えていて、(本当はもっと)いい話だと、私は思うのだが。エールの要素があるというか。マルサスにさえ伝わっていなかった感があるため、仕方ないのかも。
マルサス:いくらなんでも楽観的すぎると、スミスを批判。しかし、援助はさらなる貧困を生むとして、救貧法にも反対。
コロナ禍、米国が国民に何度も給付金を出したことが、どんなことをまねいたか。
1週間の休みなら英気を養えるが、3ヶ月休んだら二度と仕事に行きたくなくなる。人間そんなものだ。企業も。もらった費用で本来いりもしない部署を立ち上げ、分配が終わると解散させた(大量解雇をともなう)。要は、両例とも、手厚い支援を「もてあました」のだ。文字数がいきすぎるため、このくらいにしておく。
マルクス:人が増えすぎるから貧困が起こるとしたマルサスに、反論。失業率の問題だと主張。
マルサスによると。人が飢えて死ぬことは、自然な淘汰である。人口を減らそうと、対策を練ることはできるかもしれないが(世の中を晩婚化させるだとか)。資本主義が悪いのではない。
マルクスは、これに反対するに決まっている。
後で詳しく書くが。ダーウィンのアイディアは、マルサスのアイディアに影響を受けて、できあがったものである。
マルクスは、当初、このことを知らなかったのではないか。知ってからは、ダーウィンに対しても、批判的にならざるを得なかったのではないか。
ダーウィンは、かつて、大学で医学を学んでいた。そもそも血を見るのが苦手なくらいで、麻酔が普及していなかった時代に外科手術を行うことに耐えきれず、その道を追求することを断念した。
次は、牧師になる勉強をした。最終的に、博物学に強い興味を抱いた。(私には、現代の米国の話しかできないが。大学在学中に、実際学んでみてこれではないと方向転換することは、普通のことである)
20代前半でダーウィンは、ある測量船に乗せてもらい、数年間の航海を経験している。知らない土地や島々に、複数おり立った。はじめて火山を見たり、珍しい動植物を観察したり、現地の人たちと交流したりした。無論、記録や標本を両手いっぱいに抱えて、旅を終えた。
帰国後、研究にいそしむ中、1冊の本と出会った。前述したような考え方が書かれていた、マルサスの『人口論』だった。マルサスが与えたきっかけと、航海で得たさまざまな知見があいまって、ダーウィンはひらめいた。これは、人間ばかりではなく総ての生物に対して、言えることなのではないかーー。
「体系的な研究をはじめて15ヶ月後、私は、マルサスの本を読んでいた。私はついに、機能する理論を得た」ダーウィンは、日づけまでハッキリと覚えていた。
こうして、『種の起源』が書かれた。
こういうところが、おもしろいのだ。
人間社会と動植物界は同じなんじゃないか。
動植物界と人間社会は同じなんだな。
ダーウィンとマルクスが、マルサスを囲んで、一周した感じが伝わるだろうか。
みんなは、そんなに離ればなれになってなんか、ない。私がそう信じたいだけかな……。
『種の起源』はすぐに売りきれた。
もっとも、生物の進化に関する著作は、すでにいくつか発表されていて。『種の起源』が話題や人気になる素地は、あったのだが。
たとえば。アルフレッド・ウォレスのアイディアは、周囲から、ダーウィンのそれに近いと思われていた。先取権を確保しろ・早く説を発表しろと、まわりはダーウィンをせっついた。
ダーウィン自身は、彼を「脅威」だとは思っていなかった。認めていなかったという意味ではなく。ウォレスも、「あの人の完璧な仕事に自分は遠くおよばない」と表明していた。(こういう様子だったのは、両者とも、上下的な競い方をするタイプではなかったのもある)
たしかに、生態的地位や適応放散にダーウィンの考察がいたる頃、両者の差は歴然に。
次元の違う者から見てもわからないが、頂点どおしは互いの差がよくわかる。そういうものだ。
彼の人柄がわかりやすいというのもあり、別の回でダーウィンについて書いた箇所を貼っておく。
ダーウィンのことをもっと身近な存在に感じられるかも。当然、どんな偉人にも私生活はある。
動物の繁殖について学ぶダーウィンのノートの中に、こんな走り書きが確認されている。
「結婚する」「結婚しない」
「利点:永遠の伴侶。年をとってからの友人……?犬よりまし」「欠点:本のためのお金が減る。おそろしいほどの時間の無駄」
将来の妻となる女性からダーウィンへの手紙の中で、こんなメッセージが確認されている。
「いくら追求しても答えが得られないこと、人が知る必要のないことにまで、必要以上に科学的探求心をもたないでほしい。(家庭にはもちこまないで、のニュアンス)」
笑笑
これほどかみあっていなくとも。結婚生活は円満におくれたし、子どもは10人も生まれた。10回の妊娠出産……妻もじゅうぶんに偉人だ。
ダーウィンは、「研究に没頭して家庭をかえりみない男」だったのか。
10人の内2人が、幼くして亡くなっている。
病にふせる娘に、よく効くと噂の水治療法をほどこしたせいで、死なせてしまったのではないかと。ダーウィンは自分をひどく責めた。詳細は省くが、わらにもすがる気持ちだったのだと思われる。
「じゃまくさく感じるくらいに、子供全員をわけへだてなく、溺愛してくれる父親だった」これは、1人の子の回想だ。
ダーウィンは、生涯で、約2000人と手紙の交換をした。すごい数。その内、約200人は聖職者だった。
宗教を否定など決してしていなかった彼も、長女がわずか10才で他界した時は、「死は神や罪とは関係なく、自然現象の1つである」と言った。
教区の仕事の手伝い(ご近所づきあいのようなもの)は続けたが。日曜は、教会に通う代わりに、散歩に出かけるようになった。
切ないね……
宗教は、民族の生き残り戦略である。私のことは、無神論者ではなく不可知論者だと思ってほしい。このような見解にいたった。
つまり。人の信仰を否定などしないが、私にはあなたたちと同じ信仰をもつことは無理だと。
現代では、特に日本のような国では、いたって普通のことに聞こえる。しかし、これは、現代の話でも・日本の話でもない。
この世を去ってから、ようやっと評価されるようになった人間は、大勢いるが。ダーウィンは違った。
彼の “進化論” は、生物学・自然科学の分野だけでなく、あらゆる界隈に大きな影響をおよぼした。
全ての生物を神の創造物とする聖書には、バズーカ砲を食らわせたようなものだった。ナチズムは、適者生存や生存競争の概念を、故意に誤読した。
ダーウィンは、1つの系統がより高次な形態へと前進するという考えを捨てた。もっと言うと。1つの動物が他の動物よりも高等だと考えるのは、不合理だとした。
これがどうコントラバーシャルか。意味、わかるよね。
ベイツやミュラーは、彼を支持し続け、進化論を補強するさまざまな資料を提供したが。
この2人のことは、この回に書いた。
分野は異なれど、互いに切磋琢磨し探求を続けてきた友人らが、幾人もダーウィンから離れていった。
一例として。『昆虫記』で有名なファーブルも、反対者の1人だった。
研究を直接的に協力していた人物さえ、やはり道徳的・倫理的に受け入れることができないと、彼のもとを去ったりした。
ダーウィンは、あまりの反発の激しさに、「この理論が受け入れられるには、種の進化と同じだけの時間がかかるのではないか」と発言。
晩年のダーウィンは、敵対者から向けられる批判で、心身共に疲弊していた。進化論という言葉のひとり歩きや、自然選択説を唯物論的にとらえる支持者にも、辟易していた。
マルクスは、このどちらもに当てはまっていたことになる。
ダーウィンからあるオーストリアの博物学者への手紙。「社会主義と自然選択による進化を融合させるのは、突飛な考えである」去らずにいてくれた仲間に、自分のつらい状況を相談していたようだ。
今風にイメージしてみよう。
これをとりあげてくれだとか、あれにふれないでくれだとか、いい加減にしてくれ。書きたいことがあるなら自分で書け。見たくないなら見るな。
マルクスは、『資本論』を1冊ダーウィンに贈ったそうだ。「心から敬愛する。カール・マルクスより」というメッセージ付きで。
ダーウィンがマルクスから贈られたとされる『資本論』は、ロンドン南東部のダーウィンの旧宅に、展示されている。
ダーウィンはこの本をほとんど読まなかった、と旧宅の学芸員は言う。
20世紀半ばに、工業印刷が一般的な製本方法になる前(印刷用ギロチン?が普及する前)。本は、未開封 = 上端と前端が折りたたまれてくっついた状態で、売られていた。読むためには、ペーパー・ナイフで、ページを切る必要があった。
ダーウィンの所有していた『資本論』は、最初の100ページしか、開封されていなかった。
キュレーターらも、このような見解をもっている。「裁断されていないページと、慣習的なメモがないことから。ダーウィンは、マルクスの文章にあまり魅力を感じていなかったことが、うかがえる」
ダーウィンの息子のコメント。「父はドイツ語が苦手だった。ドイツ語の本には、走り書きをほとんどしていなかった。1冊の本を何度も読み返し、ようやっと意味がわかってくるものだと言っていた。そんな父が、熟読したであろう本には、思考のメモがたくさん書かれていた」
開封されているのは、100ページぴったりなのだろうか。もし、そうだとしたら。想像してみる。
他の学者からサイン本をもらってしまった。
(後述するが、ダーウィンは、マルクスがどんな人物か知らなかった可能性がある)
お礼の手紙に何かしら感想を書かないと、まずいだろうな。
ドイツ語はよくわからない。困ったな。
よし、とりあえず100ページ。そこまでは、がんばって読んでみよう。
1873年10月
拝啓
親愛なるサー
政治経済という重要な主題をより深く理解することで、この著作を受けとるにふさわしい存在でありたいと、心から願っています。私たちの研究は非常に異なっていますが、ともに知識の拡大を切に望んでおり、このことが長期的には人類の幸福につながることを確信しています。
敬具
チャールズ・ダーウィン
ダーウィンが礼儀正しい人であり、あたりさわりのない言葉を使うのがうまかっったことだけが、わかる文章だ。笑
このようなマルクスとダーウィンの交流は、神話のようなものであった可能性が、後に浮上している。
現存するマルクスの書類郡の中から、「ダーウィンの2通目の手紙」が発見された。1880年10月付けのものだ。
拝啓
どのような形であれ、私の文章に対するあなたのご指摘を出版することに、何の同意も必要ありません。何の同意も必要としないものに同意を与えるのは、バカげています。
私はあらゆるテーマについて自由な思想を強く提唱しているが、キリスト教や神道に対する直接的な反論は、……正しいか間違っているかは別として……一般大衆にほとんど何の効果ももたらさないように思われる。
それゆえ、私は常に宗教に関する執筆をさけ、科学に限定してきた。
ただ、宗教への直接的な攻撃を助長するようなことをすれば家族に苦痛を与えることになるかもしれないからと、私は不当に偏っていたのかもしれません。
あなたからの要望をお断りするのは申し訳ないのですが、私は高齢で体力がなく、校正用紙に目を通すのは大変疲れます。
親愛なるサー
敬具
ダーウィン
冒頭でもふれたが。『資本論』が宗教を直接攻撃していないことは、じゅうぶんに文書化されていた。
いくら、ドイツ語が苦手だったといっても。いや、苦手だったからこそだ。ダーウィンが、よくわからない内容に対して、ここまでふみこんだことを書いただろうか。極力、議論をさけたがっていた彼が?
私には、到底、そうは思えない。
これら(特に2通目)は、本当に、ダーウィンからマルクスへの手紙なのだろうか。
この謎は、カリフォルニア大学が行った調査により、ある程度解明されている。
1881年に出版された、『学生のダーウィン』という本がある。当時、有名な本ではなかった。後々、こういう本が存在したことがわかった。
書いたのは、エドワード・アヴェリングという人物だ。彼は、マルクスの娘エレノアの恋人だった。
まず。
1895年頃。エレノアは、アヴェリングとともに、亡き父の遺稿を整理していた。これは事実。
1897年に、アヴェリングは、マルクスとダーウィンについての論文を書いた。その中で、自分がダーウィンと文通していたことを明かした。これも事実だと確認された。
アヴェリングは、自分 ⇔ ダーウィンの手紙と、マルクスの遺品(手紙を含む)を、まとめて一緒に保管していた。論文を書く資料として。これは推測。
状況的に、あり得ることだ。
次に。
アヴェリングからダーウィンへの手紙(これも1880年10月付)が、ケンブリッジ大学に保管されていたダーウィンの書類郡の中から、発見された。
『学生ダーウィン』の見本が同封された手紙が。
・この本には、キリスト教と有神論に対する反論が含まれている。
・手紙の中で、アヴェリングは、自著をダーウィンに献呈する許可を求めていた。
返信のタイミングも、完全にかみあう。
もう高齢だから意見を求められてもきついよと、言っていたのか。ダーウィンが、アヴェリングに対して。
ダーウィンの手紙はマルクス宛てではなく、イギリスの生物学講師・進化論者・無神論者・社会主義者であった、アヴェリング宛てだったか。
2通目だけでなく、ダーウィンとマルクスの交流としてあまりにも有名な、1通目も。
メッセージ付き・サイン入りで本を贈ったのに。筆まめで知られるその相手から、マルクスは、何のリアクションももらえていなかったーーそんな可能性が出てきてしまったのだ。
親愛なるサーでなく、〇〇さんへと明記されていれば、迷宮入りなどしなかったが。
誰宛であったとしても、同じことが言えるが。
ダーウィンは、キリスト教と直接対決する戦術に、反対していた。
彼は、進化論が、創世記と相容れないことをよく理解していた。自分の考えが、福音(よいお知らせを意味する)の基礎を傷つけてしまうことも。
クリスチャンの法廷弁護士が、ダーウィンに手紙を書いたことがある。内容は、新約聖書への信仰についてだった。
「もし、私が、あなたの本を読んで楽しみを得ようとするならば。私は、新約聖書への信仰を失わなければならない。私があなたに手紙を書いたのは、新約聖書を信じるかどうかという質問に対して、イエスかノーかで答えてもらうためだ。あなたが、私と同じように、キリストが神の子であったことを信じているなら。あなたが、チャールズ・キングズリー(牧師であり学者でもある)と異なるのは、細部においてだけだと言える」
アヴェリングの手紙もこの人の手紙も、送られたのは、ダーウィンが亡くなる2年前だ。老体にムチ打つがすぎる。絡み方がだるすぎる。
2000人という、文通相手の数を思い出してほしい。有象無象のワガママや無責任に囲まれ・集中砲火を受ける、現代の著名人やインフルエンサーが、おのずと浮かんでくるはず。
ふぉいさんはいい人だ。いや、こう感じない人が狂ってしまっていると言った方が、適切か。
ダーウィン、マルクス、アヴェリング、エマ。私信を引用して勝手に文章を書いて、ごめん。
ダーウィンは、マルクスのことを知らなかったのかもしれない。
マルクスは、急進派の間では、非常によく知られる存在だったが。生前の彼は、国際的にどころか国内でも、さほど重要な人物ではなかった。
彼の葬儀に参列したのは、わすが11人だったという。
友人のエンゲルスが、彼の死後、著作を広める活動を続けた。
マルクスが40代の頃に結成されたドイツ社会民主党は、1891年(マルクスはすでに亡くなっていた)に、得票数・党員数・資金を劇的に多く獲得。20世紀初頭までに、ドイツ最大の政党となった。
CDUもCSUも、結成は1945年である。AfDは2013年。これらに比べ、SPDの息の長さよ。
マルクスの言葉に、「哲学者たちは世界を様々に解釈してきただけ。大切なのはそれを変えることだ」というのがある。
マルクスは、自分の研究がダーウィンほど科学的であるとは、思っていなかった。少なくとも、エンゲルスのような支持者らとは違い、人間社会が厳密に決定論的であるとは考えていなかった。
マンドリルについて調べようとしてくれて、本当にありがとうーーなど。
ダーウィンが書いた無数の手紙の中で、最も頻繁に見られる言葉は、「進化」ではない。「ありがとう」だ。
ダーウィン「人類の高貴な特性。困窮している人への同情。人間以外のささやかな生命もいつくしむ心。神のような知性。太陽系の運動と法則への理解。それらとともに。人間は、その体の中に、つつましい祖先の痕跡を残している」
ダーウィンは本当に素敵な人だ。日本にだって、南方熊楠がいるけどね。
ダーウィンは、当時の多くの人々と同じように、人種平等主義者とまでは言いがたい存在だった。例)航海中に出会った白人種以外の人たちのことを、まるで獣のようだ、と記録していた。
また、女性の能力は男性のそれよりも劣ると、考えていたりした。これも、歴史的にずっと思われていたことだが。
しかし。人種間の生物学的な差異は非常に小さいため、人種を異なる生物種と考えるべきではないと、主張していた。
こういう無味無臭な「情報」でなく。遠い過去の赤の他人をリアルに感じれるような、生々しいエピソードの方が、私は断然好きだ。↓
ダーウィンは、ビーグル号の艦長と、激しく衝突したことがあった。怒鳴りあいになったそうだ。
奴隷制度に対する意見の相違からだった。
奴隷たちは現状に満足している・彼ら彼女らは奴隷でいることを幸せだと感じていると言った、艦長に対し。「主人」の前で「奴隷」が言ったことを本心だと思うなんてどれだけ愚鈍だよ……というイヤミを、聞こえるように言った。
あ!?お前今なんつった!?
甲板の上でとっくみあいになっている、2人の男性が、目に浮かんでくる。
こんなことは、彼の学説に比べたら、どうでもいいことだろうか。ダーウィンはいい人だった。
農民やハトの育種家などからも、話を聞く機会を逃さなかった。親戚・隣人・使用人・入植者・船員仲間……さまざまな人たちから、とにかくよく話を聞いた。動物園でオランウータンがはじめて公開された時には、その人間の幼児に似たふるまいに、注目した。
こんな人が、もう私に話しかけないでくれないか・あなたたちとは議論をしたくないなどと言い出すことに、なぜなったのか。
今回は、それを解説した。
現代。私たちは成長し、こんなことを繰り返さないように、なれているだろうか。
過去の先祖らと、SNSの会わない人らが両方出てくる感じで、ずとまよの2曲があう。
『あいつら全員同窓会』の方が、よりいいか?
結局、私たちって、全員集合・全員参戦の結果なんだもんね?ダーウィン。あきらめずにがんばるよ。