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脱学校的人間(新編集版)〈44〉

 それまでバラバラな価値観と生活慣習のもとに生きてきた人々を、「だいたい同じような人間」として作り変えていく役割を担っていた学校と軍隊は、それら自らの作り上げた人間たちの「平等性」も作り上げ、そこに付与していったわけだが、一方ではさらにそれらの人々の「自由」をもまた、そこで同時に生産していたのだと言うことができる。言い換えれば学校と軍隊は、それまでの「身分的な型にはまった人間」から、「自由にどのような人間にでもなれる人間」を作り出していったわけである。
 たとえば学校と軍隊によって作り出される、「どのような生産様式にもすばやく対応できる、一般的な生産手段としての労働力となりうる人間」とは、同時に「特定の生産様式に縛られることのない、自由な生産力となりうる人間」だということにもなる。学校と軍隊はそのように、みな一律同様な一定の力を持った人間を作り出す機能と同時に、「人間をある特定の力から自由にする機能」をも持ち合わせていたのである。
 一方でそのような学校と軍隊の「生産活動」によって増大し続ける、「自由にどのようなものにもなりうる人間」が送り込まれてくる社会の方では、しかし彼らをただ「自由のまま」にはしておかないのであった。社会はむしろ、そういった「だいたい同じような人間の間に生じている、ほんのちょっとの差」を、けっして見逃しはしない。そしてその「ほんのちょっとの差」を理由として算出されることとなる、それぞれ個々の「価値」に応じて、彼ら「社会的諸個人に、社会的な役割を与え、産業社会の労働力商品として回収する」のである。

 ここまで見てきたように、全ての人間を学校から社会に送り出し、労働主体として生産過程に供給するという「国民教育のイデオロギー」を、その根底として支えていた経済的合理性に基づく社会的な功利性という現実的要求が、まさしく近代国民国家形成の基礎には置かれていたのだと言えるだろうし、また一般にもそのように考えられているところだろうと言える。
 国家が「統一された共同社会」として成立し、その領域に生活する住民の誰もが「国民として平等」に、その生活の維持と発展の機会を得ることのできるよう、誰もが分け隔てなく働き・売り・買うことができるような、全国的に統一された国内市場の発展が、国民全体の経済生活の豊かさの増進と、国家自体の経済的繁栄という「統一された発展の様相」として捉え出されてくる。そしてそこに、「国民全体が自らの労働によって当の国民自身の富を増大させ、それにより国民自身全体の生活維持もまた安定したものとして保証され、その保証にもとづいた国民生活の発展とともに、国家自体の繁栄もまた達成されていくことになる」というような、国民と国家をあげての一大共同事業を、各々ともに手を携え一致結束して推進させていくことができるのだ、というような「国民国家全体で共同化された国民的イデオロギー」がここに成立する。国民一人一人がよりたくさん働くことによって、その生活をさらによりよくすることができるという、「国民全体において一致して共有されたイデオロギー」は、国民化の過程において国内の住人の隅々にまで共同化され、さらによりいっそう増進されていくことになる。

〈つづく〉


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