労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈7〉
一般的な労働として抽象された「労働力」は、まさしく「商品として見出される」わけであるが、その「商品」に対しては一般的に、使用価値と交換価値という二側面の価値が見出される。そのそれぞれの「意味づけ」の違いについて、例え話を交えながら考えてみよう。
ここに2本の単三乾電池があるとする。その乾電池が使用者に買われ、そして実際に使用されるにあたって、1本は懐中電灯を点灯させるのに使う場合と、もう1本は目覚まし時計を動かすために用いる場合とを考えると、そのそれぞれ別の使用過程において「それぞれ別の使用価値を実現している」と見なしうることで、それは「その単三乾電池の、それぞれ別の労働の結果」であるとも言えるだろう。
しかし、一方で懐中電灯を点灯させていた1本の単三乾電池を、もう一方の目覚まし時計に入れ替えても、彼は「前任者」と同様にその目覚まし時計を動かすことができる。その意味で彼ら「単三乾電池の個別具体的な労働」は、そのそれぞれ個々の実際の労働実態はどうであれ、それぞれ互いに全く同質な「一般的な労働」なのであり、その一般的な労働は、それぞれ別の生産局面においての、それぞれ「1本の単三乾電池の使用価値」として、懐中電灯および目覚まし時計それぞれの「労働力としての単三乾電池の、それぞれの使用者の間」において、それぞれ互いに使用しうる商品としての「交換価値」が成立するというわけである。
さらに、懐中電灯を点灯させている単三乾電池と、目覚まし時計を動かしている単三乾電池は、それらを互いに入れ替えても「それぞれの使用価値として成立する」ことから、「それぞれの労働は、同質の労働と見なしうる」こととなる。そして、懐中電灯を点灯させている単三乾電池の労働は、一方の目覚まし時計を動かしている単三乾電池の労働と、「それぞれ全く同質なものとして関連づけられていることにおいて、一般的な労働である」と言える。ゆえにその「一般的な労働」は、「互いに使用価値として使用しうる限りにおいて、交換価値となる」わけである。
商品としての労働力すなわち「一般的な労働」は、それを極端に言っても言わなくても、結局のところどこの誰の労働であってもよいのだし、またむしろそうでなければならない。なぜならカール・マルクスによれば、「各個人の労働は、交換価値で表示される限り同質性というこの社会的な性格を持ち、またあらゆる他の個人の労働に対して同質なものとして関連させられている限りにおいてのみ、彼らの労働は交換価値で表示される」(※1)のであり、そのような商品としての労働力のその「交換価値としては、互いに等しい無差別の労働を、つまり労働する者の個性の消え去っている労働を表示しており、だから交換価値を生み出す労働は、抽象的一般的労働なのだ」(※2)と言いうるところとなり、またそうでなければそれはけっして「商品」たりえないのである。
しかし一方で「商品としての使用価値」は、「それを使用するその人にとっての使用価値」でなければならない。なぜなら商品のその「使用価値は、使用に関してのみ価値を持ち、ただ消費の過程においてのみ実現される」(※3)のだから。そして「商品」は、他の人が所有していないものを彼自身が所有しており、なおかつ彼がそれを売ることができることによって「商品」なのであり、「それを所有していない他の人」が、彼から「それを商品として買い、実際に使用すること」によって、「その商品の使用価値は、その使用者であるその商品の買い手において実現される」ということになる。
たとえば、単三乾電池はたしかに、懐中電灯を点灯させるために使用することのできる「使用価値がある商品」であるのかもしれない。しかしそれは、「前もってそのような使用価値として売られている」というわけではない。また、「そのように使用されなければ使用価値ではない」ものでもない。それが実際に買われて、実際に使用されるのは、たとえば目覚まし時計の電源としてかもしれない。あるいは携帯電話の予備バッテリーとしてかもしれない。「その商品を買うこと」により、それを実際にどのように使用するかは、その商品の購入者、つまりその商品の使用者の「自由」なのだ。そして、「その使用者が、自由に使用することができる限りにおいて、その商品の使用価値は生み出されている」ことになるわけである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 マルクス「経済学批判」
※2 マルクス「経済学批判」
※3 マルクス「経済学批判」