病と戦のあいだには−−カミュ『ペスト』論考−−〈24〉
リウーたちとの対話の中でランベールは、「あなた達は恋愛のためには死ねないが、一つの観念のためなら死ねる、自分はそんな連中にはウンザリしているのだ」と、彼らの振る舞いに見え隠れする「ヒロイズム」を非難する。しかし実はランベール自身も、かつて若い頃には理想に燃え、勇壮一途なヒロイズムに魅せられた経験を持っていたのだった。
ランベールは、スベイン市民戦争に共和国派の義勇兵として参加していたようだった。その体験の中でランベールは、彼を駆り立てていたどのような理想や英雄的な行為も、裏を返せば人を傷つけ死に追いやる非道の振る舞いにつながるものだと、その身を持って知った。このような認識は、後に明らかになるタルーの経験にも相通じるところである。
ランベールは言う。「自分は、人間が偉大な行為をなしうることを知っている。しかしもし、その人間が偉大な感情を抱き得ないなら、そのような者に自分は何の興味もない」と。さらに「あなたたちは、一つの観念のためなら死ぬことができる、私にはそれが目に浮かぶようだ」と、ランベールはリウーとタルーを前にして、当の彼らをまるで当てこするように言うのだった。
「…僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというもの信用しません。僕はそれが容易であることを知っていますし、それが人殺しを行うものであったことを知ったのです。僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです。…」(※1)
それに対して、それまでじっと耳を傾けるだけだったリウーが口を開き、「ランベール君、人間は観念ではないのですよ」と、相手を諭すように言った。
しかしランベールはさらに、「いや、観念ですよ。しかも全くちっぽけな観念なんです」と、語気強くその言葉を否定する。
「…われわれはもう愛というものをもちこたえられなくなってしまったんです。そう思って、あきらめることですね。いつかは、それができるようになるのを期待するとして、もしいよいよそれが不可能ときまったら、万人必定の解放の日を待つばかりです、ヒーローを気取ったりしないでね。僕はまあ、それ以上はご免こうむりますね。…」(※2)
リウーは、少しウンザリしたような疲労の色を顔ににじませながら、ランベールに向かってこう言った。
「…君のいうとおりですよ、ランベール君、まったくそのとおりです。ですから、僕は、たとい何もののためにでも、君が今やろうとしていることから君を引きもどそうとは思いません。それは僕にも正しいこと、いいことだと思えるんです。しかし、それにしてもこれだけはぜひいっておきたいんですがね−−今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです…」(※3)
誠実さとは、一体どういう意味なのかとランベールが尋ねると、リウーは「一般的なことはわからないが、自分にとっては、その職務を果すことだ」というように答える。それに対してランベールは、「僕には何が自分の職務だかわからない。実際、あるいは愛を選んだのが間違いだったかもしれない」と、自身の心の混乱を嘆きながら、それでもなお、「あなた達は、失うものがないからそういったことができるのだ」と、最後の反撃を加えるのだった。
その夜の訪問の帰り際にタルーは、リウーの妻が病気の転地療養中で、現在はもちろん会うことも叶わない状態にあることを打ち明けると、ランベールはその知らざる事情に思いがけない強い衝撃を受け絶句した。
そしてその翌朝、ランベールはリウーに電話をかける。そして「自分のオラン脱出が叶うまで、保健隊の活動に参加したい」と、彼は自らついに医師へと申し出るのだった。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※2 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳
※3 カミュ「ペスト」宮崎嶺雄訳