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脱学校的人間(新編集版)〈72〉

 現代を生きる人の、その社会的な行動様式の原理として根幹に置かれているものとはすなわち「経済」なのであるということは、今日誰もが疑わないところであろう。そしてその経済の「本質」とは何かといえば、要するにモノを売ったカネでモノを買い、それをひたすら繰り返していくということに尽きるのであろう。そのようなモノの売り買いが実際になされている場こそ、いわゆる「市場」と呼ばれるものであるのに他ならない。
 さまざまなモノの取引がおおむね自由に取り交わされているであろうあらゆる「市場」においては、買われるモノ=商品があれば当然その一方には買われない商品というのもまたあるわけである。むしろ傍らに買われない商品がなければ、自分の買いたい商品がはたして「買ってもよい商品」なのかどうか、直感的にはわからないものなのではないか。山積みにされたまま売れ残り埃を被っているモノよりも、並べられたそばから人の手に取られ、あっという間に捌けていくモノの方が「明らかによい商品だ」と誰もが思うだろうし、ならばそれは「買ってよい商品」ということのはずであり、なおかつ「買いたくなる商品」なのだということで、「消費者」としてのその触手もまた嬉々としてそこに伸びていくものだろう。
 そもそもあらゆるモノの「価値」とは、実際そのようにしか具体的にはあらわれてこないものなのである。売れないモノよりは売れるモノの方が価値がある、これは当然のことだ。しかしその価値は、「売れないモノより売れている」ということが、実際の目に見えてくることによってようやくはじめてわかることなのだ。ゆえに「買われる商品の価値」を決定するのはむしろその傍らにある「買われない商品」の存在なのだということもまた、ここで一定の正当性を獲得するところとなっているわけである。
 ところで、教育が生み出しているのは雇用ではなく、あくまでも「労働力という商品」である。そして教育は「買われる労働力」と同時に、実は「買われない労働力」も生産している。これは実際、労働力が「買われる商品であるために必要なこと」なのである。ゆえに教育は、全ての労働力が買われること、すなわち全ての者の雇用を保証するものではけっしてないし、そもそもそのように制度設計されてなどいない。むしろ一定の労働力が買われないこと、すなわち一定の労働者が雇用されないことは、そもそもから社会的な暗黙の前提となっていることなのである。

 人間の社会的な有用性を、端的に言えば社会的に有用な「労働力」を生産し、当の社会に供給することこそが、何より学校が担うべきとされている役割だというのは、学校自身そして教育者自身が胸を張って自認するところでもあると言える。
 一方でそうした「公的な」社会的人間の生産プロセスに対して批判的な立場を取り、それとは別の「イデオロギー」にもとづく教育システム、たとえばいわゆる「オルタナティブな」教育方法などを提唱しているのもまた、結局のところ「教育者と呼ばれる人間たち」なのである。 
 イヴァン・イリッチは、しかしそういった「改革的な教育者たち」にしたところで、彼らの目指す意図が「教育を前提としている限り」においては、彼らが自ら対抗していると自負しているところの、いわゆる「学校教育の伝統的なイデオロギー」をむしろ暗黙に支持していることになり、なおかつそれを踏襲していることにさえなってしまうのだ、と告発している(※1)。そしてそれにより、既存の公的な教育および学校に対してなされている「改革的教育者」たちの批判にしても、とどのつまりは「教育によって何がどのように教えられるべきか?」というレベルに留まってしまわざるをえないのだという(※2)。つまり「教育それ自体」について、ここで何ら批判や議論の対象ともされないまま、もっぱらその教育の「仕方」や、子どもの成長の「仕方」ばかりが繰り返し議論されているのにすぎないのだ、とイリッチは言うわけである。
 要するに「既存の教育に対抗する改革者たち」も、彼ら自身が相変わらず「教育的」である限り、実際は全くのところ「学校的」なのであり、かつ「制度的」であらざるをえないのである(※3)。つまり彼らが教育の「仕方を変える」ことを目指すその改革運動において、しかしその「仕方という構造自体」は、いつまでも絶えることなく反復され続けることになるというわけだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」
※2 イリッチ「学校をなくせばどうなるか?」(『脱学校化の可能性』所収)
※3 イリッチ「脱学校の社会」


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