Shunsaku Matsuoka
「友達にも聴いてほしいな。」日常の中で気に入った曲に出会うと決まってそう思いインスタグラムのストーリーズで共有する。かれこれ3年以上続けている。 ストリーミングサービスの共有機能を使ったりCDやアナログ盤の現物を撮影したりして投稿するのだが、基本的に自分の言葉は添えていない。下手なコメントで受け手を納得させようとしたくなくて、「気になったらチェックしてみてね」程度の気持ちでいる。初めの気持ちと矛盾しているかもしれないが。でしゃばっていると思われたくないという思いがある。
文字が綺麗に書けない。 学生、もっと言えばそれ以前の児童というカテゴリーに属していた頃からの悩みだ。 はねやはらいが上手く出来ない、形も不格好、自分の文字に言いたいことは山ほどある。 中学時代の恩師はいつも行書体で字を書く人だった。黒板に美しい文字を流水のように書き出していくその姿に強い憧れを抱いた僕は彼の文字の書き方を真似するようになった。 自分で行書体を調べて書く練習をすれば幾らかましな字が書けるようになったのかもしれない。実際、やってみようと思ったが、行書体の一覧表を見
昨日、誕生日を迎えた友達がいる。 同じ年に生まれた僕たちはいよいよ「アラサー」と呼ばれる領域に足を踏み込む。四半世紀を生きた時点では20代という意識が強かったが、そこから次の年度に入るだけで「まもなく30代」だと考えずにはいられない。 昨日までの連休の中で、その彼を含む何人かとビデオ電話をしながら大学生の頃の写真を見ながら当時を振り返ることがあった。大学に入学した年から6年も経っているという事実に驚いてしまった。あの頃中学一年生だった人は高校を卒業している。僕たちの時間は確実
とある木曜日のこと。 深夜12時を回った頃、ラジオの電源を入れた。受験生だった僕はテレビ番組のコンテンツに飽き始めており、代わりにラジオ番組を聴いていた。 その番組は曜日ごとにパーソナリティが変わる形式だった。木曜日は男性の声が聴こえてきた。知らない人の声。番組の公式サイトを見ると名前が載っている。やはり知らない人。 その時、パソコンを覗いた母が僕に話しかけてきた。 「ああ、その人(ダウンタウンの)浜ちゃんの息子だよね?」 OKAMOTO’Sのベーシスト、ハマ・オカモトさ
テレビ問題。 僕は特撮ヒーローが好きだ。特に仮面ライダーが好きだ。夏ごろに最新作がいつも発表されるのだが、どんなテーマなのか、主演はどんな俳優さんなのか、色々と考えながら毎年その時を待っている。元号が変わったので今秋からは令和ライダー第一作目が放送されることだろう。どんなヒーローが生まれるのか楽しみで仕方ない。 だが、高校生から僕は仮面ライダーを観なくなった。恥ずかしかったから。親に「その年になっても…」と言われるのが嫌だったから。だから日曜日の朝、両親がいない時という中々整
「もっと他の人のグラスを見て、量が減っていれば次何を飲むか聞いて注文しろ!」 飲み会でそう怒られた。 気配りを怠ったことは間違いない。ほぼ内輪の飲み会だったこともあり気が緩んでいたことも認める。 ただ、こういう慣習はずっと続いていくのだろうか。 お酒は自分のペースで飲みたい。飲みたいものを飲みたい分だけ。注文も自分のタイミングでしたい。飲め!などと言われるのはまっぴらごめんだし、飲んでる?と聞かれることすらちょっと苦手だ。何故人に合わせなくてはならないのだろうか。 自
文章を書けない日々が続いた。理由は大きく分けて3つある。 その1、仕事。下半期から自分が受け持つ案件や実務が増えたことで、平日はもちろんのこと、休日もリフレッシュに時間を割くようになりパソコンの前に座ることが出来なくなっていた。 その2、写真と短歌。およそ1年前からゆるく続けていた写真を撮ることを本格的に自己表現の手段とし始めた、と同時に写真から感じたことを短歌にするようにした。これがなかなか面白い。2000字の文章を書くよりも端的に想いを表現できる。言葉に頼り過ぎる
午後5時、ルノアールにて。 本当は仕事をするために入ったが、始めて5分で店内の騒がしさにうんざりしてこちらの執筆作業に切り替えた。沈黙は苦手だがあまりにもうるさいとそれはそれで集中できないようだ。 予想していなかった雨。傘はない。アメッシュを確認すると、しばらくすれば止むような気がしたのでそれまで店にいようと決める。 社会人になってカフェに行くことが増えた。仕事を進めたり今みたいにエッセイを書いたり、あるいはただのんびりしたり。使えるお金が多少増えたことで飲み物一杯に600円
9月は自分が受け持つ仕事が突然増え、休日もそのことで頭がいっぱいになり気持ちが落ち着かなかったので先月は記事が書けませんでした。今週いくつかの作業が一段落つきホッとしながら、今月こそは書かねばと思いこうしてパソコンを開いています。 さて、10月である。天候はどうも不安定だ。台風がやってきてわが国の公共交通機関をめちゃくちゃにしたかと思いきや、日中の気温が30度を超える日もやってきてクールビズが終了した我々を悩ませている。これを書いている日はというと、日中は暑く夜は涼しいとい
一人でいるのは寂しい。 今、一人ファミレスに入ってこれを書いている。すごく寂しい。でも仕方ない、近くのカメラ屋に出しているフィルムの現像が終わるまでの我慢だ。どうして好き好んでファミレスに一人で行って白玉あずきを頼むのか。 どうしようもなく誰かに会いたいときがある。ただそれと同じように、誰かに会うことがめちゃくちゃ億劫になることもある。 心がねじれ絡まっているのは僕が一人っ子だからだと思う。一人っ子は自分に近い感覚を持つ人間と一緒に過ごす時間が短い。だから自然と一人で欲
物心ついた頃から、周りから「肌白いね」と言われてきた。 初対面の人はしばらく話したらほぼ必ずこう言ってくるし、長い付き合いの人もふとした瞬間「やっぱ白いな」と言う。23年間生きてきて、本当に数え切れないほど言われた気がする。 否定するつもりはない。鏡で自分の身体を見ると確かに白いなと思う。ただ、肌の白さが影響しているのか、最近は「肌綺麗だね!」という人まで出てきた。この言葉を聞くと複雑な気持ちになる。だって綺麗ではないから。吹き出物もあればシミもある。褒められて嬉しい一方
書きたくない話題だ。 こういう話がしたくて文章を書き始めたわけではない。noteを始めたきっかけについて、詳しくは一番最初の投稿を読んでほしいのだが、今回の記事は自分にとって極めてイレギュラーなものである。同じようなトピックはなるべく扱わないようにしていきたい。 救われない文章なんて、誰が書きたいだろう。 でも書かなくてはならない。 この話題には触れなくてはいけない、僕は使命感に近いものを抱いた。これはきっと自分が生きていく上で避けてはいけないもの、生涯考え続けなけ
学生の時、とある女の子と付き合っていた。学校行事を通して知り合った子だった。 とにかく明るくてよく喋る子で、自分とは違うキャラクターの持ち主だった。そこに惹かれていって、一緒にテスト勉強したり遊びに行くようになり、しばらくしたのちそういう仲に。 当時の僕はかなり浮かれていた。なんせ初めての恋人だったからだ。その子の顔を見るのが毎日の楽しみだった。お互い部活動が忙しくて、なかなか二人で会えなかったから、二人の時間は大切に過ごした。なるほど、恋人がいるというのはこんなにも自分の
このタイトルを見てどれだけの人がいやらしいことを想像しただろうか。 「脱ぐ」という行為にはどうしても人の裸の姿がついていきがちである。 「女優の誰々が脱いだ」とか言う宣伝文句があったり、「脱げるカラダに」とか言う特集記事があったり、、、人はいつも脱ぐという言葉の先に脱いだ後の裸の肉体を見ているようである。 脱ぐという言葉はほかの言葉を組み合わせることでまったく違う意味を生み出す動詞の1つである。「ベールを脱ぐ」、「一肌脱ぐ」。これらの言葉は裸という概念を内含していない。