文字が綺麗に書けない。
学生、もっと言えばそれ以前の児童というカテゴリーに属していた頃からの悩みだ。
はねやはらいが上手く出来ない、形も不格好、自分の文字に言いたいことは山ほどある。
中学時代の恩師はいつも行書体で字を書く人だった。黒板に美しい文字を流水のように書き出していくその姿に強い憧れを抱いた僕は彼の文字の書き方を真似するようになった。
自分で行書体を調べて書く練習をすれば幾らかましな字が書けるようになったのかもしれない。実際、やってみようと思ったが、行書体の一覧表を見ただけでその熱意はすっかり冷めてしまい、それ以降僕は恩師の真似事だけを続けた。
結果、行書体のように見えなくもない文字を体得し、人によっては達筆だと勘違いされる。しかし、大抵は騙されない。高校生の時、自分の文字を見た友達が「綺麗に見える字だね」と的を射た言葉をかけてくれたことは頭の中の日記帳に書き留めてある。
職業柄、送り状を書くことがよくある。
保管されるものではないが、それでも人様の目に入るものだから出来る限り丁寧に書かねば、と小さな作業だがいつも気合が入る。
記入事項が書き込まれた送り状は画像データにして受取人にメールで送るようにしている。そのため、送信する前にデータ化した送り状を確認するのだが、どれだけ丁寧に書いていても、悲しいかな、パソコンの画面で見る自分の文字はこれまでのようにどこか不格好なのだ。別の媒体を通して客観的に見てみると、映される現実はいつも理想には程遠い。
送り状と言えば、母はしばしば実家から生活用品や食糧を送ってくれる。
内訳はだいたい化粧用品、ティッシュペーパー、カップ麺やレトルト食品。洗顔石鹸や制汗剤が届くとドラッグストアに行く手間が省けるし、ティッシュペーパーも大いに越したことはない。けれどレトルト食品だけは困ってしまう。自分で料理をするようになったことで食べる機会が滅法無くなってしまったからだ。現在台所の棚には大量のレトルトカレー、パスタソース、みそ汁パウダー等が収められている。中には賞味期限を過ぎてしまったものもあり、折角送ってもらったのに、と申し訳ない気持ちになった。
送り状に書かれた母の文字を見ると心が安らぐ。今の自宅と親が住む家は決して離れているわけではないが、まとまった休みを迎えないと帰らないため、彼女に会う機会はぐんと減った。ひと昔前なら手紙を送り合う中で直筆の文字を見ては相手のことを思い浮かべていたのだろう。メールやSNSで送られるメッセージは共通書体のため、文字からその人を想起させることは難しい。母がその手でペンを持って書いた文字を確認する手段は荷物に貼られた送り状を見ることくらいになってしまった。だから、そこにある一文字一文字がいつも彼女の存在を強く感じさせてくれるのだ。
こんなことを言っておきながら、母の日には携帯電話を使って母へメッセージを送ってしまった自分である。いざ想いを伝えようとなると恥ずかしさが勝り、電話すら出来ず結果として最も手軽な方法を選んでしまった。
長文だと全て読むのが億劫になるだろうからできるだけ簡潔にまとめよう。世の中がこんな状況なので第一に健康を案じつつ、いい機会だったので頻繁に料理が出来ているから実家から食糧は送っていただかなくて構いませんよと伝えることにした。
「荷物に限らずたまには母親っぽいこともさせてね。」
それが母の返事だった。
この言葉が心に残っている。子が親離れする一方で、親は親であり続けようとしている、そんな彼女の思いを感じた。彼女がどのような意図でそう言ってくれたのかは分からないが、母の「母」としての気持ちを受け取ることが出来た気がした。
あの日母親の立場になってメモ用紙に書いてみた短歌を添えてこの話を仕舞いにすることにしよう。
こんな時も、やはり文字は綺麗に書けない。