一人でいるのは寂しい。
今、一人ファミレスに入ってこれを書いている。すごく寂しい。でも仕方ない、近くのカメラ屋に出しているフィルムの現像が終わるまでの我慢だ。どうして好き好んでファミレスに一人で行って白玉あずきを頼むのか。
どうしようもなく誰かに会いたいときがある。ただそれと同じように、誰かに会うことがめちゃくちゃ億劫になることもある。
心がねじれ絡まっているのは僕が一人っ子だからだと思う。一人っ子は自分に近い感覚を持つ人間と一緒に過ごす時間が短い。だから自然と一人で欲求を満たすことが出来るようになる。一人でいることが苦でなくなる。親と一緒にいるじゃないかと思うだろうが、親と子の感覚には大きな差がある。彼らにとって子供はいつまでも子供だし、子供にとっても親は親でしかない。目線を同じにすることは非常に難しい。
苦でなくなるとはいえ、これまでの人生を上から見下ろすと、一人でいることは寂しいなと思う時間の方が多い。それは身近な所に自らの意志で愛し守りたいという存在がいないからだ。親への愛はいわば恩返しであって、自分発ではない。ましてや親が途中で変わることもあるのだから、そうなればなおさら愛することは難しい。
家にいるのが親と自分だけだと、自分の果たすべき役割がはっきりしてないことに気づく。親以外に守るべきものが無いと、自分は何のためにこの家にいるのか考えてしまう。もっと極端なことを言うと、その親ですら自分の本当の親ではないかもしれない。母の産道を通った記憶なんてありはしないのだから。もしも自分の目の前にいる親を名乗る者は赤の他人だったら、彼らは守るに値するのか。だとしたら家族にとって僕は一体何なのだろうか。
「未来のミライ」を公開初日に見てきた。
あの映画のテーマの一つは「家族の中でのアイデンティティ」だと思う。主人公のくんちゃんは妹が“やってくる”までは両親や親戚にただ愛されるだけの存在だった。しかし愛されるという“役割”を妹に奪われることで酷く狼狽する。くんちゃんはまだ4歳。自分の気持ちをちゃんと表現することが出来ず、妹に手をあげたり親に泣きつくばかり。
クライマックスでくんちゃんは「自分は家族においてどういう存在なのか」という問いを突きつけられる。彼のモヤモヤはいよいよピークに。自分が何者であるか分からないものに価値は無いという現実を目の前にして、全てを見失いかけたとき、くんちゃんはその心に妹=ミライちゃんを見る。「くんちゃんは、ミライちゃんのお兄ちゃん。」彼はそこで初めて兄という自覚、自分が妹を支え、守るのだという自覚をする。
この映画は下に弟妹がいる人にオススメしたい。きっと共感できることや考えさせられることが多いだろう。僕は終映したとき、妹がいればこんな気持ちの変化を経験していたのだろうかと考えた。僕は未だに親から愛される存在だ。家族の中での居場所は生まれたときからずっと変わらない。これは一人っ子の宿命だ。
きっと、新しい家族を持つとき、僕はクンちゃんのように自分自身の存在意義を見出すことになる。あるいはそれを見出した時こそ新しい家族をつくる決心をするだろう。その時が来れば、僕は親にこう言ってやる。
今まで居場所を作ってくれてありがとう。