いつかきっと絶望する前に

書きたくない話題だ。

こういう話がしたくて文章を書き始めたわけではない。noteを始めたきっかけについて、詳しくは一番最初の投稿を読んでほしいのだが、今回の記事は自分にとって極めてイレギュラーなものである。同じようなトピックはなるべく扱わないようにしていきたい。

救われない文章なんて、誰が書きたいだろう。


でも書かなくてはならない。
この話題には触れなくてはいけない、僕は使命感に近いものを抱いた。これはきっと自分が生きていく上で避けてはいけないもの、生涯考え続けなければならないものなのだ。だから今ここで言葉にしてみる。

思っていることを思っているまま書く。ちゃんと文章にしようと思うけど、文章になるか不安だ。また、学術的根拠だったり、人の意見を全く考慮していないのでそこもご理解いただきたい。









虐待された女の子のニュースが頭から離れない。

亡くなったことはもちろん、僕だけじゃなく多くの人が衝撃を受けたのがその女の子が書き残したとされているメッセージだと思う。だって普通の5歳児はあんな言葉言わないでしょ。許して、なんて言わないよ。

亡くなってしまう間際、彼女の顔には何が写っていただろう。親への懺悔?自分への嫌悪?それとも生を終えられることへの安堵?いまこうして書いてみると、これらもまた5歳児が思う心情ではないということに気がつく。

僕はどうしてもこの事件の被害者が生まれて5年とちょっとしか時を過ごしていない子供だというようには思えない。一体どこまで追い詰められたのか。

僕がこの世で理解できないこと。

一つが自殺。もう一つが虐待。

本当は自殺についてもお話したいが、長くなってしまいそうなので今回は割愛。

なぜ虐待が絶えないのか。特に父親ではなく母親が子供を傷つけることには疑問しか浮かばない。自分が腹を痛めて産み落とした命をなぜそのようにすることが出来るのだろう。

親が子供に手を上げるとき、

親が子供に対して先生や部活のコーチのようになっているのではないか。この時、子供への攻撃は「体罰」に近いものになる。

いき過ぎた子育てというべきかもしれない。というのは親というのはいつだって自分の価値観の下で子供を育てる生き物のような気がするからだ。完全放牧主義という人もいるかもしれないが、それがマジョリティーとは思えない。子供に好きなことをさせる親も、生活の中では何かを習慣づけさせたり、自分と同じ思想(宗教的なことではなくて、自分に厳しくせよとか競争心をもてとかいうレベルの話)を持たせようとするのではないだろうか。

その意識が強くなった時、親は子供にとっての先生となり、子供は親にとっての生徒になる。血がつながっていることを忘れる。優しい先生ならばいいが、そうではない先生は生徒が思うように成長しないといらだち、その気持ちを生徒にぶつける。

これがもっと酷くなると、親は子供をペットのように扱い始める。「教育」はいつしか「しつけ」に変わっていく。こうなるともはや人と人の繋がりはなくなっている。飼い主の言うとおりに出来なければペットは「お仕置き」される。暴力をふるわれる、エサを与えてもらえない、部屋の外へ放置される、、、

虐待される子供まず与えられるものは精神の死だ。人としての尊厳は奪われ、生きたいという意志もやがて消えていく。残されるのは傷つき、衰えた肉塊のみ。ただひたすらに心の音が止むのを待つ。

わが子を捨てた親はどんな気分なのだろう。満足なのか。後悔する者もいるのか。いずれにせよ分かることは、子供を痛めつけているその瞬間、彼らは親ではなくなっていることだ。

細かい原因はたくさんあるだろう。一つ共通していることは子供が自分の望み通りの姿にならないことへの怒りではないだろうか。これがある地点に到達したとき、彼らは親としてあるまじき姿を見せ、親としてしてはならない行為に及ぶのではないだろうか。

しかし、これはきっと親になる者なら誰しも通る道な気がする。僕にもし子供が出来たら、おそらく同じように苛立ち、「本当に俺の子供か?」などと思ってしまう日が来るだろう。

人間って多分そんなもんなんだ。自己中心的で、高望みし、思うようにならないと「こんなはずじゃない」と頭を抱える。そしてその気持ちを誰かにぶつける。許してやることが出来ない。大抵がそんなもん。今の時代、聖人君子なんている方がちょっと怖い。いてほしいけど。

虐待の加害者はそれに気づけていないのではないだろうか。「自分の子供だから大成する」とか考えているんじゃないだろうか。やがて愛すべき幼子に失望するとも知らずに。


僕らは大したことない。一体どれくらいの人がそれを知っているだろう。

皮を剥いで肉を削げば根本にあるものは皆そんなに変わらない気がする。でも僕らは「自分は特別だ、あいつとは違う」って思い込む。はじめは誰だってきっと同じだ。やがて自分のもとにやってくる赤ん坊だって例外ではない。

こう考えればだいぶ気が楽になる。過度な期待をせずに済むし身の丈にあった振る舞いができるようになる。

話がずれた気もするけど、不必要な死を無くすためにこういう考え方は必要だと思う。人が人らしく生きて、人を人らしく生かすには自分の愚かさをもっと知るべきだ。

いつかきっと絶望する。そんな僕を僕は受け入れてあげたい。

#エッセイ