歩幅

「もっと他の人のグラスを見て、量が減っていれば次何を飲むか聞いて注文しろ!」
飲み会でそう怒られた。
気配りを怠ったことは間違いない。ほぼ内輪の飲み会だったこともあり気が緩んでいたことも認める。

ただ、こういう慣習はずっと続いていくのだろうか。

お酒は自分のペースで飲みたい。飲みたいものを飲みたい分だけ。注文も自分のタイミングでしたい。飲め!などと言われるのはまっぴらごめんだし、飲んでる?と聞かれることすらちょっと苦手だ。何故人に合わせなくてはならないのだろうか。
自分のお酒に対する欲求と他者のサービス精神がピタリとはまることは少ない。
飲み物がピッチャーなどで来るスタイルの飲み会なんか最悪である。自分の飲みたいタイミングと他者が自分のグラスに注いでくれるタイミングはまず一致しない。酷い奴はまだ半分しか飲んでいないのに注ぎ足してくる。早すぎるだろ!と思う。
「どうせそれ飲むんだから良いじゃん」と言われるかもしれない。実際、注がれたものは黙って飲む。その人に「注ぐのちょっと早いです」といちいち言ったりはしない。しかし、他人のタイミングで注いでもらったものをありがとうと言いながら飲むことは本当のお酒の楽しみ方だろうか。

「好きなように踊って」

僕の敬愛するとあるアーティストはこう言った。
そのアーティストはコンサート中、あまり客を煽らない。ファンの中で定着してるハンドクラップやムーブはあるけど、本人が強要することは無い。客にはそれぞれの楽しみ方をしてもらって、彼はそれをただ見ている。
あるコンサートで、客が自由に踊る姿を見て彼はこう言った。「みんなすごいね。」

もっとマイペースに生きたいのが正直な気持ちである。
これまでの人生ではそれなりに誰かの役に立とうとしていたところがあって、それを賞賛されることも何度かあった。ただいつもどこか虚しさが残った。就活でも献身さをアピールしたけど、面接でそういう話をした後の自分の口の中にはなにか苦味が残っていたような気がする。それは「最後には自分の思うように考え、行動して、満足したい」という願望が心の底にあったからなのだろう。俺の人生は俺のもんだもんね。自分を捨てるのは本当に心を許せる人のためだけでいいんじゃないか?

話のグレードを戻そう。とにかく、飲み会とか遊んでる時とか、それぞれのシーンで僕は出来る限り自分なりの楽しみ方をしたい。それは果たしていけないことなのだろうか。誰かに足並みを揃え続けることが本当に自分を満足させるのか。人間100%他者中心的になることなんてきっと出来ない。だったら自分の歩幅を保ちたいなと思う。村の掟に従ってニコニコするのは性分に合わない。

なんか気を遣ってくれと言わんばかりの非常に独りよがりな話になってしまった。冒頭の出来事を受けての正直な気持ちです。日本人がもう少し、ほんの少しだけ自分勝手になることを祈って。

#note #エッセイ #飲み会 #生活