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パン屋のパンしか食べなくなったのと、米を食べに行く牛丼屋で米がおいしくないとがっかりするのは似たようなこと

(こちらの記事の続きとなります)

俺が六年間食べた、神戸市の学校給食は、ご飯もコッペパンも、おかずと食べるにはなんとかなっても、それ単体で食べていると、美味しくなさでしんどくなってくるような味だった。

けれど、今となっては、コッペパンに対しては、美味しくはなかったけれど、あんなものだったのだろうなと思っている。

けれど、ご飯に対しては、もうちょっとどうにかならなかったんだろうかと、今思い出しても美味しくなかったなとうんざりしてしまう。

それは単純に、小学校の給食が始まった時点で、俺にとってパンというのはそれほど美味しいものではなかったからなのだろうと思う。

両親が共稼ぎで朝はコーヒーを飲むから、俺の家は朝飯は簡単にパンですませていたけれど、そのパンというのは、基本的にスーパーの安い食パンだった。

子供が飽きてきてたまに嫌がるから、たまに菓子パンを買ってくれたり、ミスタードーナツを買ってくれていたけれど、ジャムがあっても、ソーセージとか目玉焼きをつけてもらっていても、そこまで強烈に飽きてくるほどに、当時のスーパーの安い食パンは美味しくなかったということなのだろう。

家で毎日食べているパンにそんなふうに感じていたから、米とは違って、給食のコッペパンに対しては、トーストしたてなぶん家の食パンのほうが少しましというくらいで、家で食べるパンより美味しくなくて嫌だとか、そういうことは思っていなかったのだと思う。

それでも、コッペパンもちっとも美味しいものではなかったから、低学年の頃は、お腹が満足したら残りは給食袋に入れて、学校が終わって学童保育に行く途中に鳩がいたらちぎって投げたりしていた。

俺の時代より前の神戸の給食の画像。パンは照りがなかったからちょっと違うけれど、牛乳瓶やマーガリンや食器とかはこんな感じだった。
長田の原田パンが周辺の給食パンをやっていて、店でもコッペパンを売っているようだけれど、当時の須磨ニュータウンの小学校のコッペパンもこんな質感だった。

自分の家で食べる食パンにしてもそうだったけれど、給食のコッペパンの、なんとも奥行きの感じられない、食べても食べても行き止まりという感じがして、食べるのがだるくなってくる感じというのは、なかなか嫌なものだったなと思う。

(俺の世代の神戸市育ちはみんなそうなのだろうけれど、小学校給食ではプレーンなコッペパンしか出たことはなくて、揚げパンとか違う種類のパンは出なかった。(神戸市でコッペパン以外のパンが特別パンとしてたまに出るようになったのは2000年からということらしい))

家の食パンも、目玉焼きとかウインナーをおかずにして食べるか、もしくはジャムとか何かしらをつけないと食べていられなかったけれど、給食のパンにしても、マーガリンとジャムとか、おかずの味でパンを食べる感じにしないと難しくて、パンが余りがちで、パン自体を食べる感じになるたびに、急速に口の中が食べ飽きてしんどくなってきていた。

俺も食パンが続くとどうしても口が飽きてきたし、俺以上に弟が食パンに飽きていたから、家では菓子パンとか食パン以外の比率は徐々に上がっていったけれど、本当に昔のスーパーの安い食パンとか、小学校のコッペパンのような、低価格なプレーンなパンの風味とか食感とか口溶けというのは、どうにも心地よくなさがつきまとうものだったなと思う。

けれど、それはあくまで安い食パンの問題で、パン自体は美味しいものだと思っていたのだと思う。

パン屋でフランスパンやデニッシュ系のものを買ってきたときは美味しいと思っていたし、食パン系でも、父親が三宮のイスズベーカリーとかのパン屋でハード山食なんかを気まぐれに買ってきたときは、美味しいと思いながら食べていたのだと思う。

最近はめったにパンを食べなくなってしまったけれど、大人になってからだって、俺はずっとパンを食べるのは好きで、いろんなパン屋に行っていた。

渋谷に用があるとよくヴィロンでバゲットを買って帰っていたし、シニフィアン・シニフィエなんかも好きでたまに食べていた。

じっくり食べてもっと味が多いバゲットはあるにしろ、普通に食べてすんなり美味しいし楽しいのがヴィロン(どの焼き方もそれぞれ美味しい)

もうちょっと手頃な店のものでも、気に入っているお店のパンを食べていると、おかずに目玉焼きとかちょっとしたものを用意していると、むしろバターだけでよかったなと思って、おかずを作ってむしろもったいなかったなと思ったりしていた。

それくらいに、俺はパン自体の味が好きではあるのだ。

ただ、二十代中頃から三十代とか、その頃であっても、スーパーの一番安い食パンはどうしても美味しくなさすぎるなと思っていたし、パン全体が好きになったというわけではなかった。

自分が実家で暮らしていた80年代90年代のスーパーのパンと比べれば、スーパーのパンは美味しくなっていたし、パスコの超熟はちょっとお菓子っぽい味の仕方で好みじゃないとか、フジパン本仕込みの匂いの仕方と甘さが好みじゃないとか、いろいろ思うことはあったけれど、覚えているのだと、00年代に高円寺に住んでいた頃は、東急ストアの超熟より少しだけ高い食パンなんかは、スーパーの食パンの味の仕方はしていたけれど、違和感になる匂いも少なくて、風味に厚みもあって、けっこう美味しいなと思って、ちょくちょく買ったりしていた。

スーパーの食パンで満足できるようになったという意味では、時代がよくなったということなのだろう。

かといって、スーパーでなくていいのなら、デンマークの食パンが、高円寺に住んでいた頃は一番美味しく感じていたのだろう。

当時はスーパーのパンはとても安くて、CMなんかで見たことのない食パンなら100円で買えたり、本仕込みより少し高い超熟が130円とかで、その頃でも、デンマークの食パンは200円くらいだったのだろう。

けれど、それはスーパーのパンが安すぎるだけなのだろう。

米だって、スーパーで5キロ1000円とか1200円とかで売っている米は、なんとも風味が弱いし食感もよくなかったりするし、安い食パンの風味がいまいちなのも同じようなことなのだろう。

それこそ、吉野家の米というのは、スーパーの安い食パンレベルの米を使っていたから、ぎりぎり俺にとってがっかりするような味に感じられていたということなのかもしれない。

食パンはスーパーで売っている中で安くない方を選べば満足できるようになったし、米だって、昔よりも安い米でも美味しい米は増えたのだろうなと思う。

かといって、どれだけ昔よりも安い食パンが美味しくなっているからといって、俺は年を取るほどに安い食パンを食べなくなっていったのだ。

俺は三十代以降は完全にスーパーで食パンを買う習慣がなくなってしまって、職場の人が昔コープこうべのパン屋「小麦の森」(森?)でバイトしていて、六甲という食パンが美味しくて自分でもよく食べていたと言っていたから買ってみて食べて、裏の原材料表示を見てわかっていたとはいえ、かなり甘くて口には合わなかったとか、それがここ10年近くで唯一のスーパーとかそれに類する食パンを買った機会だったかもしれない。

美味しくなくはなかったけれど、甘いから俺には合わなかった(庶民向けの食べ物が何でもお菓子的・スナック的な美味しさに寄せられていく流れは止まらないのだろうし、諦めているけれど)

それ以前に、パンを食べる習慣もほとんどなくなってしまっていて、ひととご飯を食べるときに、洋風なものでまとめたりするときに、デパートに入っているパン屋でフランスパン系のものを買うというのはたまにあるけれど、日常の食事となると、パン食は年に数日あればいいほうになってきている。

近年だと、元ドンクの同世代くらいの人が比較的近所でやっていたパン屋が、全然売れないと言いながら「酵母食パン」という名前で割高な値段で売っていた食パンは好きで、たまに近くを通ったときに買っていたけれど、その店が閉まってからは、片手で数えられるくらいしか、朝とか昼にパンを食べていないのかもしれない。

酵母食パン(天然酵母的な香りは控えめで、香ばしさよりは、むっちりした生地を噛みしめるほどにじわじわと粉の美味しさを強く感じる、食べ進むほど美味しくなる味わいだった)

(美味しかったパン屋)

その店が閉まってしばらくしてから、いつのまにか比較的近所にパン屋ができて、レビューを見ていたら自分好みな感じっぽかったから、ひとがくるときに一度バゲットを買いに行ったけれど、たしかにとても美味しかった。

ただ、また機会があれば食べたいなとは思っているのだけれど、ここしばらくは自炊続きで、だいたい家には作り置きされた味噌汁とか和風の炒め物とかカレーがあって、別にパンとバターだけの朝食をたまには食べればいいのだけれど、作り置きがあるしと思うと、どうもパンを買う気にならないまま、ずっと行けていないままになっている。

けれど、こうやって振り返ってみると、自分はずっとスーパーのパンが好きじゃなかったんだなと思う。

それは食パンだけでなく、菓子パンでも同じで、食パンに飽きているから菓子パンも買ってもらったりはしていたけれど、子供の頃にしたって、スーパーで売っている菓子パンで好きなパンというのは特になかった。

チーズ蒸しパンが出た当初は美味しいような気がしたし、弟が特に好んでいたからちょくちょく食べる機会があったけれど、あれもちょくちょく食べていると飽きてきた感じがして、親がスーパーに買いものに行くのについていっていて、菓子パンを買ってもいいと言われても、小学校の高学年くらいからは、特に食べたいものもないしと、食パンでいいと言っていたような気がする。

もちろん、パン屋のパンはそうではなかったし、特別何パンが好きという記憶は残っていないけれど、クロワッサン系でも、甘い系でも、適当に買ってみて、どれも美味しく食べていたのだと思う。

あとは、記憶に残っているのだと、母親が職場帰りにたまに買ってきてくれた、まほろばというパン屋のクリームパンは美味しかったのを覚えている。

神戸ではきっと有名なのだろう、まほろばのクリームパン

ただ、まほろばのクリームパンを喜んでがっついていたのは、俺というよりは弟だったし、母親はだいたい買ってくるにしてもクリームパン一個だけを買って帰っていたし、半分に分けるか、半分以上を弟にあげるか、そのときの気分によっては丸ごと弟にあげていた。

俺は特に何パンが好きというのはなかった気がするけれど、弟はずっとクリームパンを好んでいて、母親がたまに手作りのカスタードクリームを作ってやって、それで食パンを食べたりということも年に一回くらいあった気がする。

俺はあんこが好きじゃなかったからアンパンは食べなかったし、ジャムの入ったパンも特に好きじゃなかったし、チョコレートは好きだったけれど、パン屋のパンに注入されているチョコレートクリームは好きじゃなかったのだけれど、かといって、クリームパンも特別好きじゃなかったから、パン屋で何か買っていいと言われても、クリームパンを選ぶことはなくて、小学校の高学年くらいからは、甘くないパンを選びがちになっていた。

とはいえ、まほろばのクリームパンというのは、そういう俺にとっても、とても美味しいものだった。

今は手作りのカスタードクリームを売りにしたクリームパンというのはよく見かけるけれど、当時はそういうものは珍しかった。

スーパーで売っているクリームパンは、パン生地もジャムパンとか他のあまり美味しくない生地と同じだし、クリームにしても、チョココロネに入っているチョコレートクリームのカスタード版という程度のあまり美味しくないもので、弟がクリームパンを好むのを横目に見ていて、そんなに美味しいものだろうかと不思議に思ったりしていた。

けれど、まほろばのカスタードクリームは、そういうスーパーのクリームパンのクリームとは違ったのだ。

クリームの風味が豊かで、ふっくらしてベタつかなくて、食べていて気持ちがいい感じのクリームだったように思う。

けれど、まほろばのクリームパンというのは、クリームが美味しいという感じで、パン生地部分は昔のパン屋のパン生地という感じの風味だったようにも思う。

おぼろげな記憶だけれど、半分とかにちぎったクリームパンをちまちまと食べて、パンの部分だけを食べた一口はそんなに美味しいわけでもないなと思って、なんだかなと思っていたような記憶がある。

そういう意味では、カスタードクリームにしたって、パン屋のパンは好きだけれど、スーパーの安い食パンは好きじゃないのと同じような感じだったということなのだろう。

母親が手作りしたカスタードクリームの場合、俺には甘かったり重たかったりしたのか、すぐに口が飽きてきたけれど、最初の数口は、卵とミルクの風味をしっかり感じられて美味しく食べていたように思う。(俺はあんこが苦手だったり、練乳が苦手でいちごにもかき氷にも使わないような子供だったし、甘さを突出して感じるものが心地よくない味覚をしているのだと思う)

そして、そういう手作り系の素材の風味をしっかり感じられるものは美味しく感じられても、そうではないものだと、美味しくないと感じないからといって、なかなか美味しいとは感じられなかったのだろう。

たとえば、ずっと関西だったし、小さい頃からヒロタのシュークリームをたまに食べていたけれど、ヒロタのシュークリームに入っているクリームは全然美味しいと思っていなかった。

きっと記憶にない頃は喜んでいたのだろうけれど、小学校中学年とか、記憶があるくらいからだと、ヒロタのシュークリームに喜んだり、美味しいと思っていくつも食べていたことがあったんだろうかと思う。

この頃パッケージが一番見覚えがある気がする

生地がぐにょぐにょして風味がないのは、クリームを食べるものとして作っているのだとすれば、それでもいいのだろうけれど、そのクリームが口の中で即座にべたついてくるし、変にぬるぬるもしていて、あとは甘さと、何の匂いという感じでもない匂いがするだけで、食べるたびになんとも微妙な気持ちよくなさを感じていたのだと思う。

たまにケーキ屋さんのケーキを食べたりしていたし、そういうクリームは美味しいと思っていたけれど、その頃には、そういう特別美味しいわけではないクリームは、生クリームでも、カスタードクリームでもチョコレートクリームでも、どれも別に食べたいと思っていなかったのだと思う。

実際、俺は小さい頃ですら、スーパーでシュークリームとかエクレアとか、クリームが入ったケーキっぽいお菓子を買ってもらいたがることがなかった。

そういうものを食べるのなら、100%の果物ジュースでも飲ませてもらうほうがいいと思っていたし、それは大人になって、何でも好きに買い食いできるようになっても変わらなかった。

子供の頃からケーキ屋のケーキを食べていたし、ケーキは大好きだったから、女の人と付き合うようになって、ケーキを買うとよさそうなイベントがあるときは、デパ地下のケーキとか、好みに合いそうな路面店のケーキを買っていたけれど、スーパーでクリームの菓子を一度でも買ったことがあるんだろうかと思う。

スーパーでそういう甘いものを買うとしたら、シンプルなタイプのプリンを何度か買ったことがあるくらいで、それも誰かと一緒に食べるから買っただけだった。

自分でそういうものを買って一人で食べるというのは、この十年だと、コープのフローズンヨーグルトが見た感じよさそうだったから買ってみて、気に入ったから何度か買っているけれど、食べるのは数ヶ月とか半年に一個とか、そんなくらいだった。

シンプルで美味しいけれど、家で間食する習慣がないから、3個入りでもいつも大幅に賞味期限をオーバーさせながら食べている。

コンビニスイーツ的なものも、数年前に最近のコンビニスイーツはすごいと何かの記事で読んで、試しに一個買ってみて食べたけれど、美味しいけれどわざわざ食べなくていいなと思って、それからはまた数年間一度も買っていないように思う。

そういう意味では、生菓子に対しても、完全にパンと同じような扱いなのかもしれない。

和菓子にしたって、30歳を過ぎて、仙太郎を食べてから、和菓子も好きになったけれど、和菓子を好きになれたからって、スーパーとかコンビニで和菓子を買うようになったりはしなかった。

そういう和菓子を誰かに出してもらっても、昔と違って、それなりに美味しいと思いながら食べられるようになったけれど、だからといって、お腹が空いていたり疲れているときにはありがたいとしても、わざわざ食べるものとしては、これくらいだと物足りないなと思っていた。

和菓子も好きだからといって、和菓子というのは、仙太郎を買って帰るか、誰かと甘味処に入るかしたときに食べればよくて、スーパーとかで売るために作られた和菓子は、別に食べなくていいのだ。

パンにしたって同じで、好きなパン屋のパンだけ食べればよくて、スーパーのパンはわざわざ食べなくていいのだろう。

そして、そんなふうに思うことの中心に、ご飯が好きだし、ご飯の場合は、美味しいご飯だと思える許容範囲がはるかに広いからというのがあるのだと思う。

スーパーの食パンを食べないのは、それを食べるならご飯を食べたほうがいいと思っているからだし、洋菓子であれ和菓子であれ、特別なときに特別好きなものだけを食べて、日常的には食べないのは、いつもご飯を食べているだけでお腹いっぱいで、もっと早くお腹が空けばいいのにと思いながら生活していて、間食するのはご飯を美味しく食べる邪魔になると思っているからなのだろう。

きっと、育った家がスーパーの一番安い米を買う家で、学校給食も地元産米とかではない、あまり美味しくない米だったりした人だと、物心ついた時点で、お米というのはさほど美味しくないと思っているというのも珍しくないんだろうなと思う。

もちろん、美味しい米は昔のほうが美味しかったかもしれないにしても、昔のほうが美味しくない米はたくさんあったのだし、近年、白いご飯が苦手だったり、ふりかけがないと食べられないというような子供が増えているというのは、別の問題なのだろう。

前の記事に書いたように、発達障害のある人には嗅覚や味覚に過敏や鈍麻があるケースが多くて、若い人に発達障害の人が増えているのだから、診断を受けるほどではないそういう傾向のある人たちを含め、味覚的に非定型的な人が増えたというのが大きいのだろう。

あとは、昔であれば、白いご飯が味がしないなんて普通じゃないことを親に言ってもぶん殴られて、大人になるまでずっと自分の心の中で白いご飯は味がしないし美味しくないとぶつぶつ言って生きていたような人が、今の時代は白いご飯を美味しく感じない自分に合わせたサービスを親に要求できるようになって、親がそういう普通じゃなさにいちいち付き合ってあげるようになったからというのも大きいのだろう。

けれど、昔は白いご飯が美味しくないなんてほとんど誰も思っていなかったのは、もっと単純に、みんなお腹が空いていたからなのかもしれない。

俺にしたって、給食の主食に対してのうんざり感は、お腹の空き具合のせいでそうなっていたのかもしれない。

そうだとしたら、それは俺の実家の食習慣がよくなかったせいだったということになるのかもしれない。

小学生の頃から、高校が終わるまで、実家を出るまでずっとそうだったと思うけれど、俺は昼飯の時間にあまりお腹が空いていなかった。

お腹が空いているかどうかで、それを食べる喜びはまったく変わってくるし、俺は実家の食習慣のせいで、パンはほとんどいつもお腹の空き具合がいまいちな状態でしか食べることがなくて、家のお米はいつもお腹が空いて美味しく食べているのに、小学校の給食のお米はお腹の空き具合がいまいちな状態でしか食べることがなかったとか、そういう問題もあったのかもしれない。


(続き)


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