古代ローマの疫病 | 大帝国を襲った死の旋律:後編
前回に引き続き、今回も古代ローマで流行した疫病についてを取り上げる。前編では古代ローマで起こった天然痘について紹介したが、後編ではマラリアについて言及していく。マラリアも天然痘と同様に古代ローマの人々を苦悩させた病のひとつであり、多くの人間がその命を落とした。もともと沼地が多いローマは、マラリアを媒介する蚊の巣窟だった。加えて、軍の移動や商人らによる交易品の流入が頻繁だったため、感染症のリスクを大きく背負っていた。
マラリア
マラリアは、マラリア原虫によって引き起こされる熱病である。古代からその存在が確認されており、マケドニアのアレクサンドロス大王やローマのゲルマニクス・カエサル等が文字資料の記録から、おそらくマラリアによって死亡したと推測されている。
マラリアは蚊を媒体として体内にマラリア原虫が入り込むことで発症する。マラリアと一口にいっても、人間にとって深刻な事態をもたらすものは「熱帯熱マラリア原虫(P. falciparum)」、「三日熱マラリア原虫(P. vivax)」、「卵形マラリア原虫(P. ovale)」、「四日熱マラリア原虫(P. malariae)」「サルマラリア原虫 P. knowlesi」の5種類ほど存在する。
マラリアは発症すると激しい熱病に襲われるが、一度目は熱が急速に下がる。恐ろしいのが治癒したと見せかけ、数日後に高熱が再び襲い、次第に身体を蝕んでいく。厄介なことに合併症を引き起こしやすく、脳マラリア、黒水熱、脾臓肥大、低血糖、肺水腫などを患って死に至るケースが多い。妊婦の場合は、胎児に原虫が伝染するリスクもある。発症から24時間以内の対応が重要であり、それ以降は重症化して死亡する可能性が高くなる。
現在では、抗マラリア薬メフロキン等の予防薬が存在している他、英国グラクソ・スミスクライン社(Glaxo Smith Kline plc)のワクチン投与の実用化が期待されている。
マラリアは蚊を媒介として患う熱病で、多くの人間を死に至らしめてきた。最悪なことに古代ローマはテルマエ、すなわち公衆浴場を愛する文化があり、この浴場がマラリアの媒介となる蚊を発生させる巣窟だった。日本人の風呂好きと対比され、綺麗好きだったと頻繁にメディア等で紹介される古代ローマ人だが、実際の古代ローマの公衆浴場は不衛生極まりないものだった。マルクス・アウレリスが公衆浴場の不潔さについて嘆いている記録からも、その実態が窺える。
古代ローマにおける公衆浴場の明るく楽しげなイメージは、ネロの家庭教師セネカの記録に頼るところが大きい。一方で、セネカは公衆浴場は人間ではなく虫用の風呂だとも酷評している他、かつての浴場はお湯抜きがあまりされていなかったことを示唆している。つまり、大人数で不清潔なお湯にずっと浸かっていたということになる。
同じくネロに仕えた属州総督にして博物学者の大プリニウスは、浴場でゴキブリを頻繁に見かけると衛生面の悪さを伝えている。このことからも当時の公衆浴場がどれほど不衛生な場所であったのかが窺い知れる。
この公衆浴場を普及させたのは、初代ローマ皇帝アウグストゥスの右腕マルクス・ウィプサニウス・アグリッパだった。前20年頃にこの文化がローマに浸透し始めたという。4世紀には数千人が利用できる大規模浴場が11箇所、ローマの港町オスティアには17箇所の浴場があったことが確認されている。
従来のローマでは、人々は夏にティベレ川で水浴びをする程度だった。公衆浴場自体はそれ以前にも存在したが、足繁く通うような魅力的な場所ではなかったようだ。古代ローマの習慣では、手足は毎日洗うが、身体は8日に1回程度だったという。だが、アグリッパにより公衆浴場での入浴が習慣化すると、ハドリアヌス帝の治世には、公衆浴場は日の出から13時までが女性、14時から21時までが男性の入浴時間と決定された。女性から男性への入れ替えの際に時間が幾分かあるため、この時間に清掃やお湯の交換を行っていたのだろうが、衛生面上どこまで徹底されていたかは定かではない。
こうした公衆浴場は、病を癒すために人々が訪れた場所でもあった。現代と同じく、温泉の効用を期待したものだったのだろう。だが、それは「感染者が頻繁に訪れる場所」、すなわち、「病気を蔓延させる危険な場所」であったことを同時に示唆する。結核、赤痢、淋病、皮膚病、口腔病、狂犬病、コレラ、マラリア、トラコーマ及びケジラミによる眼疾患、肝腫瘍、腸吸収不全を始めとする内臓疾患など、枚挙にいとまがないほどの感染症の温床だった可能性が挙げられる。古代ローマの公衆浴場が、細菌、ウイルス、バクテリアの繁殖を促進する場所であったことは確かのようだ。
マルクス・アウレリウスの治世下で天然痘の脅威を目の当たりにした医師ガレノスは、162年に帝都ローマに訪れた際に別の病気についても記録している。彼によれば、ローマでは毎日1万人が黄疸(おうだん)に、1万人が水腫(すいしゅ)を患っているといい、本人自身その病人の多さに驚いている。それだけ病気が多かったとも捉えられるが、ローマの人口がそれほどに過密していたことも窺える。
黄疸
黄疸は、肝臓で生成される「ビリルビン」という名の黄色の色素が血液中に増加して現れる症状である。初期は眼球の白目が黄色くなり、悪化すると皮膚まで黄色に変容する。原因は、ウイルス性肝炎、アルコール性肝炎、肝臓癌等、肝臓の細胞が破壊されることによって生じる。
水腫
水腫は、体腔に余分な水分が滞留する病気で、手足が膨張し、呼吸不全に至る。鬱血性心不全や腎不全が主な要因とされる。水腫は様々な内臓疾患の前兆となる。
ガレノスは他にネロの治世には秋のワンシーズンで3万人の死者が出たこと、189年の疫病の流行では一日で2000人が死亡したと記録している。この記録の数字の正確性は定かではないが、上記で述べたように帝都ローマに人間が過密していた証拠になる。インスラを始めとしたローマの密集・密閉した環境を考えれば、疫病の流行が避けられないものだったと言える。
ローマの著述家タキトゥスも『年代記 第16巻』で、ネロの治世である65年に起こった帝都ローマの疫病について記録している。タキトゥスによれば、家は遺骸で埋まり、道は葬式の列で埋まっていたという。性別や身分に関係なく疫病は人々を襲い、あっという間に命を奪う。奴隷や自由市民だけでなく、騎士階級や元老院議員の貴族階級まで亡くなったと述べられている。
ローマの著述家スエトニウスも、ガレノスと同様にネロの治世に疫病でひと秋に3万人の死者が出たことを伝えている。その他、ハドリアヌスの治世、コンモドゥスの治世でも疫病は蔓延し、多くの人間の命を奪ったと記録されている。
古代ローマは下水の処理技術が未発達であり、川は常に汚染された状態にあった。だが、人々はそうした川で採れた魚を日々食事しており、それが様々な病気の要因となった。尚且つ、彼らは今と比べて栄養バランスの悪い食生活であり、免疫力が低い傾向にあったため、人々は疫病の発生で簡単に命を落としたのである。
現在、COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染拡大が深刻な状況となっている。そんな中、私たちは、歴史から何を学ぶことができるのか。先祖たちの過去から、同じ誤ちを繰り返すことがないよう学び、発展することができるのか。問題に対しての打開策が、そこに横たわっているような気もする。古代文字の解読に難航するかのように、私たちがただそれに気付けないだけで、答えはもう既に意外にも手が届く場所にあるのかしれない。
Shelk 詩瑠久🦋