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世界の攻略法概略と創成法入門 -時間の本質を起点として-

【あるいは魔法の黎明(誕生前夜)】


形而上学を語るには二つの方法がある。一つは語らないこと(語りえぬものには沈黙しなくてはならない)。もう一つは語りつくせぬ前提で世界が終わるまで語り続けること。

あるいは形而上学は、世界を制作することで以て、語れるかもしれない。

さらに、あるいは新たな世界を創る意志の元、この世界を探求してみる過程において。

宇宙とは存在(=空)である。それが本質である。それを模した世界こそが最上位の世界だろう。おそらくすべての創造者たちは、宇宙の真理、つまり形而上学を極め、これを構造化する段階にある。宇宙の似姿(ミニチュア)たちの探究はこれだ。

その視点から見た時、生命を創って、愛を原理としたこの世界は、目の付け所がいい。これは自分が創造する際にもパクるしかないと思わせる。自然治癒とか、着想がすごい。絶対不変における変化の相殺としての機能。もちろん、これしかないとは言わないが。

原理の大本は循環。つまりプネウマ=呼吸をエネルギーとしたことであろう。生命としての構造ならば、ATPとADPの往復。さらにいえば、素粒子のさらに素となるのが弦なのも、その一環であるだろう。

もうひとつ構造で重要なのは、マトリョーシカ(フラクタル)かもしれない。生命としてならば親が子を産むという仕組み。これは細部と極大が同じであるという宇宙の真理に通じる。

だからカオスでも秩序になる。流れの美が極みとなる。

課題としては、歴史も繰り返してしまうこと。そのための発展の形式が欲しい。だから、弁証法が生じる。対立の後の高次の発展。戦いの後の愛の獲得。それに美を感じるという生命精神への仕込み。

こうやって解析してみると、この世界の創造主はデウスエクスマキナが嫌いなのだろう。

宇宙は自分を助けるだけで事足りるわけだから、この世界の構造と仕組みもまた宇宙の真実を模している。まったく、この世界の創造主、どれだけ宇宙が好きなのだろう。

すべてが循環して、己自身で何とかできるようにしてある。あとは己を何者だと考えるかという目的になるけど、だから自分探しとかが、共感を集めるようにも仕組まれている。そうして分離すれば、社会もできてしまう。だから、人生は意味もあり方もなんでもありにもなる。

今度は、この構造から、機能を生む仕組み。つまり、この構造を「観る」ことで、真実そのものを構造化する。

そして、観察するという経緯を生み出すためには、時間に類するものを創出する必要がある。不変が変化した瞬間である。

時間とは何か。

これも循環である。宇宙としての真理は、構造と機能へ派生する。形而上的な意味では簡単に述べられないが、機能が概念だとすると構造は形象だ。精神とからだのようなものだ。健全な肉体は健全な精神が創るし、健全な肉体にこそ健全な精神が宿る、という表裏一体に非常に近いし、その原理をも宇宙から拝借しているかもしれない。

時間が経過するのは、機能として構造を認識することを繰り返すのだ。そもそも、ひとつの機能から構造はいくつものバリエーションが要求できる。最初に機能が構造としての条件の束を生むと、今度はその条件の束となった構造によって機能が返ってくる。

その返ってきた機能によって、次の構造の選択肢が限定される。形而上的な機能よりは、形而下的な機能の方が選択肢は狭まる。機能は無限に多彩な構造の源泉だが、構造からは限られた機能しか生まない。

「限定された機能=意志」によって次の「構造=世界の見え方」が決定する。

こういう機能と構造の往復によって時間が概念として生じる。機能が要求した構造とその構造から機能が返って、そこからまた要求された構造が生じるわけだが、その構造と構造の間が時「間」なのだ。

機能自体は構造を無限に近いくらい要求してしまうが、構造は一定の機能しか返さない。そうやって機能がだんだん劣化していく。この過程がエントロピーの増大である。機能自体の可能性が減ることが老いである。経ると減るのだ。

だから世界の創出点では、いかに可能性を秘めたエネルギーを込めるかが焦点となる。エントロピーをどれくらい仕込めるかということだ。エントロピーを回復させる構造としては、振動や呼吸があるのだが、原初の秩序は埋め込むしかない。(原初の秩序を創造した存在が神の中の神。)

エントロピーは構造としては自然に、機能としては言語に込められている。自然と言語は宇宙としては表裏一体になっていて、お互いにお互いを回復しあう関係にもある。

自然はその構造を言語として保管できる。DNAなどもその一種だが、それらの言語はコミュニケーション言語と違って、読み書きに時間を前提としない。

こうやって自然が言語へと変換されていくのも、一つの歴史である。そして、言語が自然へと反映するのも歴史である。この二つの歴史が世界を成り立たせている。


以上を踏まえると、時間操作を始めとする歴史の解読と未来視、老いの防止なども理論化できる。

身体(構造)である場合には自分というのはそこに属していると感じられる自我だが、機能である場合には思考そのものである。そして、時間というのは構造と構造の間であるのだから、機能そのものであれば時間を費やさない。

つまり純粋な思考であるならば、時間という構造に左右されないのだ。これは思考加速ではない。思考は加速するものではなく、思考へ還ることによって時間を超越するのである。

この思考が用いる言語は、コミュニケーション言語ではなく圧縮言語である。プログラミング言語とマシン語に近いが、それよりも絶対的な開きがある。

そもそも圧縮言語には文法がない。音楽は楽譜に表されるが、実際に聴くには時間が必要である。だが楽譜を見たとたんに音楽に通じた者はその美しさを瞬時に理解する。圧縮言語もそれにちょっとだけ似ている。記すのも構造なのだから、時間を前提としているから、そこが似ていないのだ。

となると、圧縮というよりも原言語と言うべきか。ソシュールの言うようにこれは実在以前である。構造がないから、ラングもパロールも有しない。だからその操作は純粋思考だけが為せる。その本質は交信であり直観だ。電波よりはるかに速い。

天才はこれを意識的に行うし、狂人はこれを無意識に行使する。凡才は機能へと還ることを早々に忘却して時間だけを浪費し、天才に至る秀才は経験の中でこの原理を捉える。


結局、このように宇宙に属するあらゆる世界は、宇宙の機能の理解に基づいて、それをまねて構造を構想され、原初の感覚が生み出され、それに伴う形でそれぞれの美が定義され、それを司る物自体が用意された。

そして物自体以前があるのだから、その物自体以前自体以前もある。このマトリョーシカによって、不滅になるし、それを解いていく弁証法が、世界の攻略法になるのは当然だ。

世界はすでにアップロードされている。認識している存在がある以上はこれは自明である。そして、世界外から飛来する存在が、エントロピーの回復を促しつつ、バージョンアップを提唱する。

創造に携わる仕事というのは、こういう世界外存在へのあこがれである。あこがれという機能によって、それはいつか構造化するだろうから、実際に世界外存在として構造の中で機能するようにもなる。


そういう過程を経て、世界内存在と世界外存在の平衡である世界になる。こうなると世界の外側と内側の呼吸も覚える。歴史の見方(エントロピー感覚=勘による)も本質的になる。宇宙の全てである原ホログラム’(アカシックレコード)に対して、自在にズームして解析し、自在にパンして時間移動する。

形而上学はこのとき腑に落ちる。構造世界の中では、それは負に堕ちることになるかもしれないが、長い目で見ると永遠を手にする(というより永遠になる)だろう。制作された世界という全体を、エントロピー感覚で観て、世界のあらゆる可能性の内側と外側に達するのだから。


余談であるが、

形而上学に達しないと魔法を理解することはできない。仕方がないから、構造的な魔術(系譜としてはお錬金術からの科学:女性系)か、概念的な魔術(系譜としては哲学からの宗教:男性系)という二つの流れのどちらかに属してしまう。

どちらでも極めればいい話ではあるが、ほかの系統の魔術を否定していると絶対に究められない。宇宙全体になる、つまり形而上学にはすべての肯定が前提なのだから。

そして何事も理解できないなら、知識は経験に応用してわかればいいだけの話。わかろうとしない経験を形に残してしまうと、今生での理解が非常に困難になるという話。異性を対象として理解するところには、魔法の理解もまずありえない。(これが30歳「童貞」魔法使い説の根拠だろうな。当然、本当に30歳の「童貞」でも魔法使いになるわけではない。必要条件でも十分条件でもない。ふたりとも魔法使いというカップルは無数に存在する。ほんとに余談だ。)

一次的な満足ではなく、その満足が永続するように世界を創るのは、被造物としては悲願になるだろうね。その発想に達することが、本当に世界をわかろうとする動機になるかもしれない。


そうなれば、魔法を否定して窮屈にけん制し合う世界を脱却して、本当の魔法がようやくこの世界にも定着し始めるかもしれない。

(画像はanime styleで「時間の魔法使い」で生成)

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