【現実=理性】というおはなし ~ 願いをかなえてくれない神を捨てることに躊躇しない人には絶対にわからないこと ~
池田晶子さんという方が前いらっしゃったのだが、京都アニメーションとかの人でもダヤン君の人でもなくて、哲学関係のエッセイ風の本書いてた人なんだけど、その人の本というのが私に言わせると、書いてあることが最初からわかってる人しかわからない、という不思議な文章でして、いわば内輪ウケなんですよ。
何かを教え諭す、あるいは主張ための論説文ではなくて、すでにそのことについてわかっちゃってる人たちが、そのくどくも上品で精妙な言い回しからわからない人にわからないことを語ることの無理を体験的に読み取ることで、「わかってる側であること」の価値を改めて感じ入るという、かなりニッチな作品だと思うのです。
で、わからない人のたどる道はと言えば、一つはわからないことに腹を立ててその価値を下げてマウントをとって見せるか、同じ世界の住人とは思えないから見なかったことにしようとするか、が一番多いようです。
ただ、運命的というかタイミング的に、そういう世界もあるということに強く疑念を持つか、あるいは逆に確信してしまうと、その領域を是が非でも(わかるわけがないことか、確かにわかることのどちらかをも含めて)わかりたくなって、少なくともいつの日かわかってやろうと志すことになるわけです。で、それを抱いたまま経験を積んでいくことで、急にその領域を突破して、εὕρηκα!となるのですが、そのための秘訣だけはあるのです。
一つは「同じ人間が言った事なんだから自分にわからないわけがない」という確信を抱き続けることで、もう一つが世界を物理以上に精神が支配していることを前提してみることなんですね。そして、実は池田晶子さん自身が、『考える人』という著作の中では実質それしか言ってないのがわかると、笑えてきちゃうくらいです。
前者は「何かを読んだり聞いたりするときは、書いた人や話している人の立場に同化してしまえば、余すことなくその言わんとすることを捉えることができる」という原理に基づいています。だから、ヘーゲルを読むときはヘーゲルになる、ニーチェを読むときはニーチェになる、という表現が秀逸です。
後者は前者よりも根源的で「そこに物があると思うことなしに物があると言えるか」という原理に基づいていて、ゆえに「物が実際にある云々より、物があると思うことの方が重要」という前提に立って経験を生きることができるかということです。一般的にはこれは何を言ってるかわかないでしょう。在ること(現実)と在ると思うこと(理性)が実際には同じ(違う)ことだということを疑うのは普通の人生では遭遇しない経験ですから。
そういう経験をした人だけは実際にその溝のことがわかっていて、その溝(の不在)がわかるからこそ、それが世界の秘密の最たるものであることにも気がついているのだけど、少数派であるゆえにこの思考に基づいたことは理解されない。だからいうだけ無駄という思いを抱きます。「わかっている方が黙らなきゃいけないなんて、なんて階級的不平等なの?」と素晴らしい演じ方を池田晶子さんはしていますが、同意する経験を持つマイノリティは多いでしょう。
でもそれはまさしく世界の秘密なのであって、これが共有された世界などは経験が今ほど価値を持つこともないのでしょうから、そこまで至ると「さっすが世界の秘密、これがあるだけで世界はすっかり面白くなってるよね?」という地点まで駆け抜けられることになります。これを容易に受け付けない心理ブロックの存在こそが世界の祝福であって、これを簡単に伝えてしまうような経験を押し付けることは「神であっても許されない」所業になると思います。(人間界ではそういうのに二重の意味で無意識だと犯罪になるようです。)
なお、わからない人がわからない理由は、心理ブロックもありますが心理ブロックの融解過程こそが歴史だと考えると、マルクスとかスピリチュアルブームとかが、融解したものをもう一度固める作用をしているのもわかってきます。
また、国民性によっては、世界の横の動きにしか興味がなく、仕組みとか背景には無頓着なまま、何の役に立つかとか何を起こしたかとかだけが人生の視野になっている場合にも、こういうことはまずわからないままです。そういうタイプはお金の経済を唯一無二に信仰しますし、噂話だけが話題だと感じているでしょう。縦の動きに注目する人から見ると、エコノミックアニマルだ、と批判したくなりますが、当のエコノミックアニマルさんはそれ以外の人の在り方の方がゆがんで見えてしまうのです。
もっと端的に言うならば、お願いを聞いてくれない神なら捨てるのもまったく躊躇しない人がエコノミックアニマルです。でも世界の秘密を知っている人は、そういう人たちのお願いも宇宙は全面的に叶えていることが見えてしまっているので、なんだかなあ、という想いにはなります。
というわけなので、エコノミックな考え方をする人たちにも、この手の縦の思考(思想ではなく哲学なのだが)が役に立つところを見せておくのもたまにはいいのかなと思ったりはするわけです。深入りはしませんけど。押しつけになると世界の意味を一気に減らすことになるかもしれなくて、それは「神に近い力を持つ者ほど許されないこと」なのですから。世界規模の救世主になるのはやりすぎです。
ただですね…
現代という状況は、これだけプログラミングとかそれを前提としたゲームとかが流通していて、画面の裏にはそれを映し出す背景があるということは周知のはずなんですが、それでも映し出されたものだけを享受しているのは不思議でしかありません。プログラマですらプログラミング言語以外の領域にも背景となるアルゴリズム(操作手順)に気がついていないようです。
世界はゲームの総体なのですからすべてに攻略のための考え方があって、経営でも経済でも政治でも法律でも、言いたくはないけど恋愛でも友情でもあらゆる世界内ゲームに思考パターンというのが存在して、それが処理されて実際の態度や言動という認識対象となるのです。
やや具体的な一例として見ても、セールスの売り込みを聞いているとして、横の思考だけの人は現れてくる一言一句に陽動されて、いつの間にか相手の戦略にハマって言うことを聞かされるハメになりやすいです。でも、縦の思考ができる人なら、セールスの意図の方を見るし、売り込まれる商品についての営業マン自身の理解度も推し量って、そういう営業マンを送り出してくる会社の体質まで見抜いてしまうでしょう。
いくら口がうまくて、流暢に説明されても、どこを質問するかは自動的に明らかになるし、その質問の意図を正確に捉えられないというだけで馬脚が見えた気分になってしまいます。わかってないのにわかったふりをしているというのは端的に嘘つきですから、そのゲームにおいては信用しないに越したことはないです。
ただ、信用については他のことまではどうかわかりません。そもそもその人自身が信用をいい加減に考えているのか、信用は大事と知っていながら仕方なく自分を優先しているのかも、ちゃんと話せばわかる!です。それに銃でこたえるのはわかってない人です。
図的に言うなら、嘘とか隠し事は、障壁で隠されているわけですが、その障壁の裏側に回り込む能力の前では無力です。そして、その壁より高いところを経路とすることができれば、簡単に回り込めてしまいます。精神的な次元上昇というのはそういう能力です。
表面に出ていることから、隠しているだろうことがあることを常に想定するようになっているので、壁の存在を見抜き、そこを探る質問さえすれば、どこに障壁の開放部があるかわかるので、そこにピンポイントでドローン(指摘)を飛ばすのは容易です。場の全体を描いて怪しい地点を特定する索敵力の方が、ドローンの操縦術より必須性では勝ることになるのです。どこを見るかを特定するのが難しいのであって、ドローンがやれることは確認なのですから。どこに嘘があるかがわかれば、指摘が適確過ぎなくてもそれはわかるのです。
そしてネガティブな表現が許されるなら、それが圧倒的にできないというのは、大げさに言うなら己を知り彼を知れば百戦危うからずを本質的にわかってないまま生きることになります。彼を知る能力がない己すら知れませんので。それはそれで楽しいでしょう。
無償で責任をもって守ってくれる人が確かに存在するなら、この地上は最上級のバカンスになるかもしれません。もはや怖がった方が負けというのもあるでしょう。ただ、縦の人の権能として、上から見ることができてしまうと、結局予想通りになったときには、いわんこっちゃない、となります。
嘘が見抜けたり、それを活かすことができたりというのは、役に立つ技能だと思うのですが、どうでしょう? それでも騙されたままの方が楽だと結論してみるのも、悪くはないとは思います。
縦とか横とか、そういうこと自体がなじみがないと思うのですが、それでもそういう次元の上昇を経験している人は横しか見えない人よりは俯瞰的で意味が分かった人生を送っていることは、せっかくのタイミングなので知っておいた方がいいでしょう。というかわかりたくない人には、そもそもわからないですむようになっているので、その辺は私も全力で文章を書いてもいいことになっています。なので、知っておいた方がいい根拠を続けます。
わかってる方が少ないうちは知らない方の勢力が、わかってる勢力をごり押しできますが、明らかに能力的には質の領域の開きにまでなっているので、今生だけでなく他生もあるとなれば悲劇的な差になっていきます。条件が圧倒的にいいからこそなんとか勝勢ですが、条件が互角なら勝負にすらなりません、それでも他生のことは別の自分にまかせて、今生だけでも優位な気になって頑張れると割り切るならそれでもいいでしょう。ああ、他生なんかあるわけがないってのが最強ですかね。
ちなみにですが、わかってる方の立場からしても、知らないのに優位だと勘違いしている人がいないと、わかってることの素晴らしさを(いろんな感情の元で)実感できなくなるので、うん、やっぱ世界はこのままでいいです。
感覚できる世界以外のこと、つまりは死のこともわかってるわけなので、負け筋が見えないのです。というか、そもそも勝負自体がバカらしいという境地でないと、軸を見つけるのが不可能です。自分が発見もできていない軸ごとに勝敗が違うと認めたら、勝ち組を名乗る勢力のアイデンティティ崩壊です。
最後に、池田晶子さんの著作の面白さを理解するための世界観の図みたいなものを披露してみます。
というわけで、拙すぎるけど…2分で書いたから勘弁して?
形而上学とはこの絵の空間全体のことで、物理経験の世界は円盤の上で、思想とはそこで役に立つ事柄がまとめられたもの。哲学は考える軸のいろいろを移動しまくるながら観察する行為のこと。そういう風に割り切って定義すると今回のお話についても、何かが見えてくるかもしれない。
わからん人にはどうあってもわからん、というのが起きるのは軸の存在に気がついていなければ、軸のことを言う人は狂気にしか見えないから、という話でもあるのです。つまり、考えない人にはわからないことがいっぱいある、というお話なのでした。(軸の数は世界を安定させるための必然から決定される可能性はある。これは超弦理論が物理世界の次元数を指定してくるのと同じ。)
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