成蹊短歌会

成蹊短歌会

最近の記事

【一首評】〈第10回〉来世では、もう出会わない気がしてる「さようなら」って言えてよかった/中村森

  生きていても会えなくなる人がいるということを、おおよそ理解していなかった幼い頃。教科書の定型文を音読するかのように、「さようなら」を口にしていた。  小学生の時、全学年一クラスずつしかなく、学年が上がっても同じ友人たちが変わらず教室にいて、それが当たり前だった。それなりに仲が良かったし、上下の学年を交えて遊ぶことも多かった。あの頃は挨拶や自己紹介なんかしなくても、放課後の校庭に集まって、ただ一緒にケードロや花いちもんめなんかをするだけで仲良くなれていたような気がする。次の

    • 【一首評】〈第9回〉あんかけをこぼして火傷した膝に迷わずかけられる烏龍茶/島楓果

       和やかな食事の最中に突如として起こった、危機的状況。あんかけという、数ある料理の中でこぼしたらきっとトップレベルに熱い、と直感的に感じるものが肌にかかる。想像するだけで、ぞっとする。  この烏龍茶をかけたのは、誰なのか。あんかけをこぼしてしまった人か、一緒に食事をしていた人か。前者であれば、緊急性が伝わってくる歌だ。一秒でも早くこの熱さから逃れたいという気持ちで、後先考えずにかけられる烏龍茶。かけるのが水ではなく、シミになる烏龍茶であることが、やはり事態の緊急性を際立たせ

      • 【一首評】〈第8回〉観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子

         覚えている限り、幼い時分に母に手を引かれ乗った万博記念公園の観覧車は、私にとってあまり心躍る類のアトラクションではなかった。徐々に遠くなっていく地上の景色を心許なく眺めながら、兄とともに母の両脇を陣取り、私はその腕に必死にしがみついていた。その日父はぎっくり腰を再発し、どこからか車椅子を借りてくると、一日中軒のついたトイレの傍でこともなく時間を潰していた。その退屈そうな父の記憶も相まって、私にとって初めての観覧車体験はどうも芳しものではない。それなのにどうしたことか、私はそ

        • 【一首評】〈第7回〉ばあちゃんの骨のつまみ方燃やし方 YouTuberに教えてもらう/上坂あゆ美

           老人ホームで死ぬほどモテたい、その歌集の冒頭に出てくるこの歌は、私を歌集の世界へ引き込むのに十分すぎるほどの引力を有していた。  その引力の正体は、内容の奇抜さから来るインパクトだろうか。あるいは大きく首を振って肯定するほどでもないが、心の片隅にある「心当たり」を絶妙にくすぐってくるようなシンパシーだろうか。  私は両親から多くのことを教わって育った。箸の持ち方、漢字の書き順、交通ルールの重要性。それは多くの人にとっても例外ではないだろう。私たちは皆、両親や祖父母、親戚

        • 【一首評】〈第10回〉来世では、もう出会わない気がしてる「さようなら」って言えてよかった/中村森

        • 【一首評】〈第9回〉あんかけをこぼして火傷した膝に迷わずかけられる烏龍茶/島楓果

        • 【一首評】〈第8回〉観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子

        • 【一首評】〈第7回〉ばあちゃんの骨のつまみ方燃やし方 YouTuberに教えてもらう/上坂あゆ美

          【一首評】〈第6回〉ふたりしてひかりのように泣きました あのやわらかい草の上では/東直子

          涙の歌である。 喜びか、悲しみか、はたまた怒りか。透明な涙の正体が歌中で明かされることはない。ひょっとすると当人たちでさえ、なぜ泣いているのか分かっていないのかもしれない。だが、幾度も泣きながら大人になった私たちは、涙とはそういう不条理なものであるということを、身を以て知っている。感情の形をもつことができなかった感情たちの、小さな絶望をはらんだ鉄砲水こそが、涙であり、悲鳴であり、嗚咽の正体なのだ。   他人がいる場で泣くことは一般的に(特に大人にとって)躊躇うべき行為とされ

          【一首評】〈第6回〉ふたりしてひかりのように泣きました あのやわらかい草の上では/東直子

          【一首評】〈第5回〉楠は丘にゆったり広がれりゆえに多かり見失うこと/前田康子

           楠(クスノキ科ニッケイ属)は常緑高木で、日本では比較的様々なところで見ることが出来る種類の木だ。例えば、近くにそれなりの大きさの神社があれば行ってみると良い。常緑という性質上、生命のシンボルとして神木に選ばれ、祀られている場合が多いそうだ。匂いには防虫効果もあり、厄除けとしても好まれているとか、なんとか。  私はこの句を評するにあたって初めて、楠がずいぶん身近な存在だと知った。    これが収録されている「ねむそうな木」では、古文的な助詞・助動詞を用いた作品が多い。そのた

          【一首評】〈第5回〉楠は丘にゆったり広がれりゆえに多かり見失うこと/前田康子

          【一首評】〈第4回〉濡れている 質量保存の法則によって誰かが泣き止むだろう/宇野なずき

           まず意識が向くのは、唐突な「濡れている」の五音だろう。「濡れる」ことはマイナスの感情表現としてよく用いられる(し、後の文脈を踏まえてもおそらくそうだろう)が、ここではその原因については語られていない。雨か、涙か、あるいは濡れ衣のような比喩的なものかはわからないが、とにかく濡れている。この「濡れている」は「主体はいま何かしらの不幸に見舞われている」ということだけを表している。不要な部分を切り捨て、前提の設定を五音で完了することで、残りの音数に余裕を持たせている。  また、背景

          【一首評】〈第4回〉濡れている 質量保存の法則によって誰かが泣き止むだろう/宇野なずき

          【一首評】〈第三回〉白い光だなんて、教わっていないし、でもさわっていたから、ごめんなさい/笹井宏之

           白い光とは、幸福の象徴だろうか。目の前に座る人のかすかな微笑みや、早起きした時の朝の匂いや、誰かから向けられたやさしさや、そういう、ふと気づくとあたりに揺蕩っている祝福の光だろうか。    地方の住宅地を車から眺めれば突然チャペルが現れるし、夜の都会のレストランにはバースデープレートの火花が散っている。気が付けばみんな当たり前のようにしあわせを身に纏っていて、その当たり前の形に合わせて世間はゆるやかに成り立っている。しあわせを手に入れた人間と、それを取り囲む世界は、互いに

          【一首評】〈第三回〉白い光だなんて、教わっていないし、でもさわっていたから、ごめんなさい/笹井宏之

          【一首評】〈第2回〉ワンルームいっぱいに月の裏側を暗すぎるかな敷きつめるのは/我妻俊樹

           この「ワンルーム」はきっと広くない、四畳半とまでいかずともせいぜい六畳くらいの冷ややかなフローリングの部屋。満月の夜なら月光で照らし尽くせてしまうような狭い部屋だろう。しかしこの夜の月は満月ではない。まるで月の裏側のように暗い、我々には見えない新月である。  地球から見て太陽と月が同じ方向にあるときに新月は現れる。通常、地球にいる我々が月の裏側を見ることはないがそれは一旦無視し、太陽に照らされた明るい面を表だと想像してみると、新月はまさしく月の裏側になる。主人公がカーテンを

          【一首評】〈第2回〉ワンルームいっぱいに月の裏側を暗すぎるかな敷きつめるのは/我妻俊樹

          【一首評】〈第1回〉サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は/北山あさひ

          はじめに、筆者は上記の短歌をTwitterアカウント「ひとひら言葉帳」で知った。そして作者(北山あさひ)の他の短歌や歌集については未読である。よって、本稿では作者の作風について言及するような切り口で本作を読み取るものではない、そういう意味での「一首評」である、ということを断っておく。 本作を一読して印象深いのは圧倒的な「瞬間」に込められた輝き(の予感)だ。「サイダーのキャップを捻る」単に"開ける"よりも、作中主体(以下、〈主体〉)の行為にクローズアップしている印象の「捻る」

          【一首評】〈第1回〉サイダーのキャップを捻る瞬間に「元気だった?」と声がして 夏は/北山あさひ