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【一首評】〈第8回〉観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子

観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生/栗木京子(『水惑星』)


 覚えている限り、幼い時分に母に手を引かれ乗った万博記念公園の観覧車は、私にとってあまり心躍る類のアトラクションではなかった。徐々に遠くなっていく地上の景色を心許なく眺めながら、兄とともに母の両脇を陣取り、私はその腕に必死にしがみついていた。その日父はぎっくり腰を再発し、どこからか車椅子を借りてくると、一日中軒のついたトイレの傍でこともなく時間を潰していた。その退屈そうな父の記憶も相まって、私にとって初めての観覧車体験はどうも芳しものではない。それなのにどうしたことか、私はその時の記憶や目に見て触れたもの全て、未だにありありと思い出すことができる。

 乗ろうと思えばいつだって乗れるはずだが、これまでの人生で観覧車に乗った回数は、片手では足りないにせよせいぜいで両手では数えられる。それは、何もわざわざ乗るほどの魅力もない、という嫌にませた気持ちが起こるからというのが一つ、もう一つは、それでいていざ観覧車を前にすると、果たして今この相手とこんな気軽に乗って良いものだろうか、などという要らない心配が働いて足がすくむからだ。他と隔絶された空中浮遊の密室は、遊園地にある他のアトラクションとは違う、言うなれば加熱冷却の一種特別な時間になる。実際指折り数えて記憶を遡ってみれば、駆け去るような記憶の奔流の中、そこだけが異様なほどはっきりとした輪郭を残している。観覧車など所詮子どもの遊具、とせせら笑う自分がいる一方、私はやはり未だどこかで観覧車を特別視している。だからこそ迂闊なことでは乗りたくないし、いざ乗ればそれは一つ一つが粒立った後生大事な思い出となる。

 という自分語りを経てようやっと件の短歌に帰着するわけだが、この短歌はそのような観覧車につきまとう垢抜けない感傷的なセンチメントを、等身大のまま実に見事に表現している。「回れよ回れ」というリフレイン、「一日」「一生」という対句が、時間の縮尺を大きくしたり小さくしたりして、それが空中に浮かぶ密室の特別な時間の流れ方を、上手く表している。同時にこれが作者が二十歳のときの作品だと知れば、尚のこと情景が浮かぶようだ。あるいはそこに自らの記憶を重ねて、読み手一人一人が新たなイメージを起こすこともできる。
 と、一首評とは名ばかりの随筆じみた文章にはなったが、しかし実際、私は観覧車に乗るたびにこの歌を思い出す。それどころかふいに観覧車を見つけたときでさえ、この歌を思い出し、そこで十全に表された感傷にしばし身を置くことができるのだ。


(3年 ケント・フランキー)


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