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【一首評】〈第2回〉ワンルームいっぱいに月の裏側を暗すぎるかな敷きつめるのは/我妻俊樹

ワンルームいっぱいに月の裏側を暗すぎるかな敷きつめるのは
/我妻俊樹「偶然はあれから善悪をおぼえた」『ねむらない樹 vol.9』

 この「ワンルーム」はきっと広くない、四畳半とまでいかずともせいぜい六畳くらいの冷ややかなフローリングの部屋。満月の夜なら月光で照らし尽くせてしまうような狭い部屋だろう。しかしこの夜の月は満月ではない。まるで月の裏側のように暗い、我々には見えない新月である。
 地球から見て太陽と月が同じ方向にあるときに新月は現れる。通常、地球にいる我々が月の裏側を見ることはないがそれは一旦無視し、太陽に照らされた明るい面を表だと想像してみると、新月はまさしく月の裏側になる。主人公がカーテンを開け、月光のない真っ暗な夜を部屋中に満たしていく情景が想起される。

 ここで「暗すぎるかな敷きつめるのは」という語順について検討したい。ごく素直で安易な感覚でこの歌を詠もうとすれば、「ワンルームいっぱいに月の裏側を敷きつめるのは暗すぎるかな」とでもなりそうなところだ。「月の裏側を敷きつめる」という動作の間に主人公の独り言のように挿入される「暗すぎるかな」には、既にそれを敷きつめ始めてしまい、たとえばカーテンを半分くらい開いたところではたと思い当たったから言ってみたような、作者が現実にそう呟いたことがあるかのごとき実感が伴っている。

 ところでこのワンルームは誰にとって、あるいは何をするにとって「暗すぎる」のだろう。
 部屋に主人公ひとりしかいないのであれば、何をするにしても明かりを点ければ済む話である。にも拘わらずそうしない点からは、この部屋の中に存在する他者、「暗すぎる」か否かを判断する人物の輪郭が仄かに浮かび上がってくる。
 その人物は恋人かもしれないし飼っている猫かもしれない。眠っているのか起きているのかも定かではない(妄想をたくましくするなら、情事の後の恋人の寝顔をよく見たい場面なんてのも考えてしまう)。ただ、主人公が真夜中にカーテンを開くとき「暗すぎはしないだろうか」と気遣う相手であることだけが読み手にはわかる。
 ワンルーム、裏側、敷きつめるといった言葉選びと新月の夜の空気感がゆるやかに結合し、物語を醸成する一首である。   2年 藤原

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